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あたりまえの「逆転」。

2022年06月30日 05時29分 読む 日誌 仏教

あたりまえの「逆転」。の画像

以下、今月の掲示板「6月の法語カレンダー」に添付した写しです。

「今朝、目が覚めた」ことを、あたりまえのように過ごすなら、特別な感情を抱くことはありません。
ちょっと不可解でしょうが、阿弥陀さまが「私」を助けてくださる、ということは、阿弥陀さまから見れば「あたりまえ」なのです。なぜかということを、これからご説明します。
お釈迦さま(お経)によれば、阿弥陀さまは、「阿弥陀如来」になる前、「法蔵菩薩」という修行者でした。そのお方が一念発起して「こういう者を私の国に生まれさせる」という誓いを立てられまして、見事それが成就して、晴れて「阿弥陀如来」になられたというのです。
「こういう者」とは、「何年経っても忘れられない恨みがある」「隣の芝が緑に見える」「ついつい酒が進む」「ウソでも褒められたら調子に乗る」「自分の話を聞いてくれないと腹が立つ」「自分の功績に酔っている」「老いを嫌う」「病を嫌う」「死を嫌う」「何も怖いものなどない、とうそぶいている」者です。
これに限らず、仏法を聞くようになると「あたりまえ」の解釈が逆転します。お試しください。 (住職)

「今朝、目が覚めた」ことと同様に「阿弥陀さんが私を助けてくださる」ことも、あたりまえのことではなかったという驚き(感動)が生きる喜びとなっていくのです。この「逆転」を言い換えれば「コペルニクス的転回」、「回心(えしん)」とも呼びます。コペルニクス的転回とは、「私を中心にした世界」という見方から「世界を中心とした私の存在」へ見方を変えるというものです。

この喜びは、やがては手放さなければならない「絶望」をも抱き合わせて、「それもこれも、すべて引き受けた」とおっしゃる阿弥陀さんにおまかせすることができたら「安心して苦しむ」「安心して悩む」ことができるというのです。

浄土真宗はお願い事をする宗教ではない、という理由は、この「安心(あんじん、と読みます)」に立つ教えだからです。