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浄土真宗 福泉寺

観る

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「汝の汝。」の画像
2022年07月05日 05時50分
本堂の阿弥陀さん目線でカメラを向けると、このように映りました。 先の方に山門が見えます。つまり、山門で合掌されたとき、ちゃんと阿弥陀さんと向かい合っているよ、ということです。 このあたりの構造をきちんと計算して本堂が建っていることを思うと、先人の知恵は本当に素晴らしいと思います。  さて、汝(なんじ)の汝(なんじ)。 簡単に言い換えると「あなたから見たあなた」。 つまり「わたし」です。 自己評価としての私の姿は実は全体の一部に過ぎないのだよ、というのが仏教の視点です。ですから、親鸞聖人は自らを悪人と名乗られたのですが、これも悪人と悟ったのではなく、阿弥陀さんに知らされた(気づかされた)名乗りです。 汝の汝。 家族や友人から見た私も、否定の余地なく、私なのです。 いかがでしょう。
「差別というものの実体」の画像
2022年07月03日 05時50分
「差別」。 これほどに歴史を重ね、議論しつくした(答えが出ている)にもかかわらず、今なお鮮度の落ちない言葉も珍しいと思います。 なぜ鮮度が落ちないかというと、私の心に「定住」しているからなのですね。 私たちは誰かと「比べる」ことで幸不幸を感じます。 「上見て暮らすな下見て暮らせ」というのもその一つです。 病気になると健康な人がうらめしい。 年を取ると若い人がうらやましい。 失うと、手に入っていた頃の「あたりまえ」がうらめしい。 比べた方が評価しやすいのですね。 いや、比べないと生きられない仕組みになっているのかも知れません。 この心を「定住こそすれ、『安住』さすな」 という呼びかけが、この写真の言葉です。  
「7月号出来ました。」の画像
2022年07月02日 04時44分
7月号(第109号)仕上がりました。 永六輔さん、森繁久彌さん懐かしいな。 昔は音楽でも舞台でも、「味わう」ことが出来たように思います。今は何でしょうね。「消費する」という感じでしょうか。チャンネル権争いなんてすでに死語だし、見たい番組を観たい時間に、見たいところだけ切り取って、とにかく効率よく。 1976年にリリースされたイーグルスの『ホテル・カリフォルニア』などは1分近いイントロ(前奏)があり、非常に味わい深いです。 現代に間隔では、いわば「致命的な長さ」でしょう。 なぜなら「興味が湧かなければ、すぐに次の曲へジャンプされてしまう」からです。 短期勝負です。 「味わう」という時のポイントは、おそらく「余白」でしょう。 何もしない時間。何もできない時間。 多分、何もしていないと思いきや、どこかで何かが『醸成』されているのだろうと思います。 あれ、新聞の内容と大分かけ離れてしまいました。  
「あたりまえの「逆転」。」の画像
2022年06月30日 05時29分
以下、今月の掲示板「6月の法語カレンダー」に添付した写しです。 「今朝、目が覚めた」ことを、あたりまえのように過ごすなら、特別な感情を抱くことはありません。 ちょっと不可解でしょうが、阿弥陀さまが「私」を助けてくださる、ということは、阿弥陀さまから見れば「あたりまえ」なのです。なぜかということを、これからご説明します。 お釈迦さま(お経)によれば、阿弥陀さまは、「阿弥陀如来」になる前、「法蔵菩薩」という修行者でした。そのお方が一念発起して「こういう者を私の国に生まれさせる」という誓いを立てられまして、見事それが成就して、晴れて「阿弥陀如来」になられたというのです。 「こういう者」とは、「何年経っても忘れられない恨みがある」「隣の芝が緑に見える」「ついつい酒が進む」「ウソでも褒められたら調子に乗る」「自分の話を聞いてくれないと腹が立つ」「自分の功績に酔っている」「老いを嫌う」「病を嫌う」「死を嫌う」「何も怖いものなどない、とうそぶいている」者です。 これに限らず、仏法を聞くようになると「あたりまえ」の解釈が逆転します。お試しください。 (住職) 「今朝、目が覚めた」ことと同様に「阿弥陀さんが私を助けてくださる」ことも、あたりまえのことではなかったという驚き(感動)が生きる喜びとなっていくのです。この「逆転」を言い換えれば「コペルニクス的転回」、「回心(えしん)」とも呼びます。コペルニクス的転回とは、「私を中心にした世界」という見方から「世界を中心とした私の存在」へ見方を変えるというものです。 この喜びは、やがては手放さなければならない「絶望」をも抱き合わせて、「それもこれも、すべて引き受けた」とおっしゃる阿弥陀さんにおまかせすることができたら「安心して苦しむ」「安心して悩む」ことができるというのです。 浄土真宗はお願い事をする宗教ではない、という理由は、この「安心(あんじん、と読みます)」に立つ教えだからです。  
「「本堂」という空間。」の画像
2022年06月23日 05時02分
先の日曜朝、娘も久しぶりに皆さまと朝のお勤めをしました。 読経後、大の字になって寝ころんでいる姿を、ご門徒さんが 「いいなぁ」 と喜んでくれました。 私も「すみません、行儀が悪くて」というのも、なんかなぁ、という思いがして、ふと考えたのが「本堂」という空間についてです。 仏さまのことを古来「おやさま」とお呼びすることがあります。自分の親といえば、通常肉親を指しますが、「この私のいのちの帰る場所」としての仏さまという意味では「いのちの親」と言えるからです。 親の前だからこそ「本来の私」になれる、ということから、大の字をゆるしてもらえるのだ、という考えです。そしてまた、「助かるあての無いこの私を、この仏さまだけは見捨てなかった」という有難さから、「かしこまる私」もいるのです。 子どものころから寺に親しんでおく方がよいという考えは、これが理由です。法事や葬儀の時にしか、この空間に入る縁のない人は、ずっとかしこまっています。 「どんなにええかっこしても着飾っても、あんたの本性は全部見抜いとる」です。 どうぞ皆さん、 普段着で、手ぶらで、いつでも遊びに来てください。 最近は美味しいコーヒー、支度しています。 大の字になれたら合格です。  
「気にしなーい。」の画像
2022年06月22日 05時48分
先日、広島の友人が写真を送ってくれました。 佐伯区の植物公園の様子です。 花は黙って咲いて黙って散ります。 誰かの評価を気にしません。 役に立つかどうか、価値があるかどうか、 そんなことはお構いなしです。 平均寿命が延びたって、たかが100年あるかないかです。 こんな姿に、私たちは気づかされ、癒されます。  
「のばらのように。」の画像
2022年06月21日 05時04分
入院中の父(前住職)について、担当の石川医師から説明があるということで、母と一緒に病院に行ってきました。 現在寝たきりの父は、着替えや食事、トイレ、ベッドから起き上がることも出来ません。最近は、言葉を発することも出来なくなりました。 石川医師は致命的な誤嚥性肺炎を防止すべく、気管切開を控えめに提案してくれましたが、話せなくなったからと言って、気管切開してもいいと思えるほど人間は合理的にできていないことをご承知のようで、その控えめさに敬服したことでした。 さて、説明を聞いたのちに病室から降りてきた父が、車いすで合流しました。 ずいぶん痩せていて、車いすから前のめりに倒れそうな姿でした。 喧嘩をしていた頃が懐かしいです。 父は、上の写真のような文字盤(指が震えるので、穴に入れて文字をはっきり識別します)を使って、それでも15分ほどかけて意思を伝えようとしました。 地域連携室の松本さんが、倒れそうな父の上体を後ろから支えてくれています。 やっとのことで、11文字、何を言いたかったか分かりました。 「のばらのようにじゆうに」なりたい。 一文字ずつ、震える指がそう示しました。 松本さんと母が、目を赤くしていました。 それを見て私も熱くなりました。 帰って来て、このブログを書いています。 「自由」。 私は身体が元気だけれど、本当に自由なのだろうか。 本当はいつでも自由なのに、父も私も自由を感じていない。 これこそが、お釈迦さまの説かれる「無明」だと思いました。 さておき、父を支えてくださるあらゆる方々に、心から感謝申し上げます。  
「ランドセル考。(後編)」の画像
2022年06月20日 09時51分
右が2011年、左が1980年のものだそうです。 こちらのページから拝借しました。(←クリック) 改良を重ねて、軽量化に成功した現代のランドセルですが、容量が増えた分、荷物も増えているというのが現状です。 先週娘は「入りきらなかった」と言って、筆箱をポケットに入れて帰ってきました。 重量を計ると11kg。重すぎます。 ランドセルの進化はどこまで行くでしょう。 もしかしたら「ペーパーレス」が進んで、「タブレット1台だけでいい」として、40年前のサイズに移行するかもしれません。 最近、キャリー型のランドセル「さんぽセル」を開発した小学生がいるといいます。賛否があるようです。 入れるものが多ければ、当然の発想です。 これから夏の暑さが到来します。細心の注意が必要です。  
「ランドセル考。(前編)」の画像
2022年06月19日 04時55分
朝、近所の方から電話がありました。 「お宅の長男が足をくじいて立てないと言っているので、迎えに来てほしい」 1年生の息子にとって、片道3キロは正直しんどいことだろうと思います。急いで車で迎えに行くと、ご自宅前の階段で長女に付き添われながら泣いていました。 「学校やすみたい」 学校に向かう車中で、色々話を聞きました。 「今日帰ってきたら、一緒にゲームしよう。」 しだいに元気を取り戻して、学校近くで降ろしたら、 姉と駆けていきました。 「人は元気で出来ている」ことを改めて教えてくれました。 さて、最近、「さんぽセル」を開発した小学生がいるということで話題になりました。「さんぽセル」とは、ランドセルをスーツケース状に加工した製品です。これについては、賛否があるようです。 その中から批判する立場の主な意見としては 「昔から小学生はランドセルを背負って登下校している。今の子はゲームばかりして体が弱いから、そんな発想が出るのだ」というものです。 でも、昔と違うのが 「気温上昇」と「ランドセルのサイズ」と「持ち物」です。 これについては(後編)にて。  
「本堂に設置しました。」の画像
2022年06月18日 04時45分
コルクボード2枚を入り口付近に設置しました。 新聞記事や子どもさんの作品、その時々で心にとまったものを掲示します。今は ①「稲盛和夫さんがお坊さんになった時の話(当時200億ほどの寄付もしていた彼が、500円玉のお布施に震えた、という話)」 ②「おばあちゃんが亡くなった時の七日勤めの間に、私が話した内容を小学4年生のお孫さんが覚えていて、小学校の宿題の自主勉に書いた写し」 ③「小学6年生の近所の子が、夏休みの新聞づくりに、お寺の鐘について研究したときの記事作品」 ④「戦争中に供出された県内の梵鐘たちが、終戦間際には便所代わりに使われていた新聞記事」 です。 皆様の心にも何かが触れたら、教えてくださいね。
「夏至の前に。」の画像
2022年06月17日 05時44分
本堂に設置してある扇風機8台を綺麗にしました。 年に1,2度しかこうして解体して「向き合う」機会がないので、扇風機についてしばらく考えてみました。 扇風機は原理的には、電気を用いたウチワでの送風という意味で、エジソンの開発初期から変わっておらず、もうこれ以上革新の余地のないものです。たから、リモコンが付こうと、デザインが変わろうと、どこか「なつかしさ」を感じさせてくれます。 そして、文句を1つもいわず、回り続けてくれます。 私は・・・。 学生時代に京都で聞いた話です。 同期に入学したA君はお寺の出身で、どちらかというとやる気に欠けた、「寺の長男だから京都に仕方なく来た」青年でした。したがって、入学当初は作法から学問まで一貫して身が入らず、休みの日に京都でどう過ごすかばかり考えていたそうです。 夏休みが終わって、A君に法話を話す順番がきて、話してくれました。 実家の盆参りを手伝った。暑くて暑くて、早く終わらせたくて時計ばかり見ていた。ある家で読経をしていた時も、いつものように早めの読経を済ませたのだが、振り返った時、おばあちゃんが汗を流しながらウチワをゆっくり上下して風を送ってくれていた。 早く終わらせたい自分が情けなかった。 自分が支えてほしいとお願いをする前から、支えられているということを実感した、という話でした。 皆さん、今年はどんな夏になるでしょう…。  
「距離感それぞれ。」の画像
2022年06月16日 16時46分
遊びに行った家の玄関前で、たくさんのアジサイが出迎えてくれました。 先週お参りに来られた方が 「花は好きだけれど、私が育てたら全部枯らしてしまう」 とおっしゃっていました。 同様に 子どもは好きだけれど育てる自信がないという方もおられます。 全然いいじゃない。 「好きでいられる距離感」でいられればいいと思います。 大事なのは、好きでいられる、ということです。 相手が人である場合は、特に難しいです。 なぜなら、相手にも距離感があるからです。相手の心も動く。 難しい、というのは、言い換えたら「たいていは思い通りの距離感ではない」ということです。 失敗するものです。「いまは良好だ」とたびたび勘違いするものです。 わたしも、ガッカリしたり、いつも頭のどこかにこびりついていたり、そういうことはよくあります。「修行が足らん」と叱咤されそうです。でも、そういうジメジメした自分を空遠くから見て、ちょっとかわいく思ったりもしています。 さて、仏さまと「私」の距離感はいかがでしょう。  
「あたりまえ」の画像
2022年06月08日 00時48分
母が昨年ガンを見つけてもらって、抗がん剤治療ののちに手術・入院を経験した時の話です。 入院中は「なんで自分がこんな目に」という思いだったそうですが、たくさんの同じような患者さんを見てきて、今の自分の状況を特別と感じる思いが薄くなった、と話してくれました。 そして、退院後の自宅で一泊した翌朝、目が覚めたことを「奇跡」を感じたそうです。 あたりまえの反対は「ありえない」「奇跡」転じて「有難い(有ること難し)」です。この逆転現象を味わった人は、生きることが少し楽になるかも知れません。 皆様のご意見を聞かせてください。
「ここにも踊念仏。知らなんだ。」の画像
2022年06月07日 01時07分
香川の同級生がお父様を亡くされたというので、飛んでいきました。 同県綾歌郡綾川町に滝宮(たきのみや)という道の駅がありました。 ぼーっと歩いていたら「念仏踊り」と説明があったので思わず一枚。 そうだ、讃岐の国は法然聖人がご流罪にあわれた場所だったんだ。 時宗の一遍上人然り、念仏はやっぱり「踊る」なぁ。 何が嬉しくて躍るのかと言えば、「仏に成らせてもらう」のが嬉しいのです。でも私たちは、仏に成らせてもらう喜びよりも、お金がたくさん手に入る喜び、病気が治る喜び、大切な人に出逢える喜びの方が大きく感じます。ひょっとしたら、比較すらしないかも知れません。 棺桶に納まる時には全部手放していくのに、です。だから聖徳太子は「世間虚仮、唯仏是真(せけんこけ、ゆぶつぜしん。この世のことはみなそらごとです。その中にあって、ただ仏さまだけは私を虚しい気持ちにはさせないお方だ)」とおっしゃったのですね。 私も踊ってみたい。  
「これからどうなりますか」の画像
2022年06月06日 05時34分
近くの田んぼを何気なく撮ってみたら、向こう側に集まる住宅、携帯会社の電波基地局が写っていて、今の時代を象徴するような一枚になりました。 すごい勢いで田んぼが住宅地に変わっていきます。また、「こんなものうちの田んぼに入れるもんか」と基地局設置を拒否した人、受け入れて経済的に潤沢になった人、いろいろです。 共通していることと言えば「自分の都合抜きには考えられない」ということでしょうか。 こうやって、闘争や対立の絶えない世界を、仏教では「ガタピシ(我他彼此)」というのだそうです。 これからどうなるんでしょうね。  
「未来便発送!」の画像
2022年06月05日 05時14分
2012年5月20日、今から10年前に『第1回初参式』をいたしまいた。 福泉寺に入寺して間なしの私たち夫婦を、お経会のご婦人の皆さまが支えて下さり、盛大に行うことが出来ました。 シャチハタの「手形ハンコ」をつかって、小さな色紙に押し、空いているところにメッセージを書いてもらいました。それをお寺で「未来便」として10年間お預かりして、このたびの発送という、ロマンチックな催しです。 当初は、小さなお子様向けの行事でしたが、ご婦人方も「私が書いたら遺書になる」と笑いながらも、家族へのメッセージを残されたようです。 いまこうして、発送作業をしながら、一人ひとりのお顔を思い浮かべていました。子どもの10年は大きいです。立派に成長している現在の姿がみえてきました。 しかし同時に、あの時元気だった人が、今は認知症とたたかっている、またはご家族とお別れをした人もいます。こんな切なさも味わうことになるとは、10年前は想像していませんでした。 日頃、口では知ったように「無常だ」と言っていながら、そのことを本当には分かっていないのが私なのだ、と思い知らされました。 この行事は隔年開催しています。コロナで2回分飛びましたが、またやりましょう。  
「墓地の整理について【ご案内②】」の画像
2022年06月03日 05時34分
先日、ご門徒さんがドローンで撮影してくれました。 まさしく「鳥瞰図」。 鳥が見る福泉寺の姿です。 さて、墓地の整理ですが、おそらく20基分は空きます。 このご案内は5月初旬にさせていただきましたが、 すでに13件のお問い合わせを頂戴しています。 ご検討の方はご遠慮なくお声がけくださいませ。 (本格的な着工は2024年過ぎを予定しています)
「喜ばれる喜び。」の画像
2022年06月02日 05時29分
小学5年生の娘が「今日の給食めちゃくちゃ美味しかった」と言っていたので、「給食の先生にレシピを聞いてごらんよ」と提案しました。 周りの友達がしていることではないので、恥ずかしかったようです。私があらかじめ給食の渡辺さん(今年からお世話になります)に伝えてあったのですが、なんと渡辺さん直々に家までレシピを届けてくださいました。 「味が濃いとか薄いとか、みんなの意見を何でも聞かせてね!」 もう本当に恐縮してしまいました。ありがたかったです。 娘は実際に作ってみて、お礼の手紙と一緒にこの写真を届けたようです。 やっぱり、喜んでもらえることには、誰もが精を出せるものだと思いました。 渡辺さん、ありがとうございます。
「6月号出来ました。」の画像
2022年06月01日 05時04分
ホームページのアップが滞っていてすみません。 お寺は元気です。 いつでも遊びに来てください。 さて今月号は、新宿区の牛込第二中学校の松澤亮校長先生の、とある日の朝礼の原稿を転載いたしました。 ご許可を頂戴すべく、お忙しいのを承知で電話をさせていただきました。 「これも何かのご縁でしょう」 快くお許しくださいました。 ほかにもたくさんの素晴らしい記事が載っています。どうぞ中学校のホームページを訪ねてみてください。 さて、「なりたい自分」です。 そう、「何をしたいか」というよりも「どんな自分になりたいか」を考えてみることは、子どもも大人も共通の、大きな、必須のテーマであるように思います。 仏教のゴール(方向づけ)は「成仏」です。「仏に成る」。 死ぬこととイコールではありません。 そのように理解が進んだなら、さて、「仏」とはどんな存在かが問題になります。 「なりたい自分」…。10歳の娘に聞いてみました。 「私は優しい人になりたい」と言っていました。 いま、思春期を迎え始め、やさしくなれない自分と格闘している様子。  
「墓地の整理について【ご案内①】」の画像
2022年02月02日 05時09分
今年は境内地の無縁墓の撤去の手続きをいたします。 「撤去」といいましても、年内にすることはありません。 まず、無縁墓であることを確認するために3年以上は かかると思われます。 なぜなら、撤去の予告案内(公告と言います)は1年ですが、実際には数年おきにお参りされているかもしれないということがあるからです。 詳しくはまた年度末にご報告いたします。  
「2月号完成しました」の画像
2022年02月01日 16時58分
2月号(104号)完成いたしました。 ホームページ『寺報』から または山門横のポストに入れておきます。  
「雨土となれ。」の画像
2022年01月02日 09時30分
ある席で総代さんと法座のご講師が話をしていました。 内容は聞こえませんでしたが、ご講師の「蝉に生まれたくないでしょ?」とおっしゃったのだけはクリアに聞こえました。 蝉だって一つの命。いや蝉の方が蝉を全うしている。それに引き換え、私は「私という人間」を全うしているか。そんなことを思うと、むしろ蝉の方がマシのようにも思われます。 あるご門徒さんが亡くなる前に「今度は鳥に生まれたい」とおっしゃっていました。ずっと足が悪かったから、自由に大空をはばたくイメージを持っていたようです。 さて、ご講師のこの一言。 これは「助けられる側(衆生)から、助ける側(仏さま)への転換」を意味します。仏教が「さとり」を目指すのは、この「一切の命あるものを救済する存在になる」ことを目指すことにほかならないのです。 今日のお通夜の方が、「生きとる間にみんなの喜ぶ顔を見ておきたい」といいながら、95年の命を全うされました。  
「おおみそか ’21」の画像
2022年01月01日 20時35分
ご門徒さんが設置してくださいました。 壮観! 小学生も阿弥陀経を熱唱。 生涯で最もワクワクするような読経でした。 牛乳パックの灯籠です。 100個を目標にして回収を募集しましたが、 200個を超えました。感謝です。 ほとんど無地の灯籠でしたが、 メッセージのついたものもあります。 じつは、感謝を伝える「ありが灯籠」の 企画でした。 今年もぜひしたいと思います。 本年もよろしくお願い申し上げます。  
「再会」の画像
2021年12月29日 21時27分
県外出張中のご門徒さんがお参りに来られました。 ずいぶん会っていない感覚でした。わずかな時間でしたが、心躍るひとときでした。 三人のお子さんはもうすっかり大きくなっているようですが、小さいころからお寺の行事に参加してくれたことが、今となって大きな宝になっています。
「除夜の鐘ライトアップ」の画像
2021年12月29日 17時34分
今朝、20個ほど試しにしてみましたが、 想像を超えた雰囲気です。 間違いなく映えます。 どうぞお越しくださいませ。
「うれしかったこと」の画像
2021年12月26日 04時04分
過日、公私にわたってお世話になっているご夫婦がわざわざ来てくださいました。 子どもたちのクリスマスのためです。 親子ほどの歳の差である「師」ながら、どうもお互いに「友」として楽しんでいる 気配を感じます(笑) 明日、久々にたき火をしようとお約束いたしました。 そして今日は、ある法座で出会った80過ぎの方が来てくださいました。 お約束したわずかな時間のために、お隣の井原市から車で50分かけて。 会いたい人が会いに来てくれることほどうれしいものはありません。  
「幸せの土台」の画像
2021年12月25日 05時04分
ご門徒さんとおしゃべりをしているうちに「そうなのか」と思ったことをまとめてみました。 左は「幸せな人生」は「健康であること」が土台にある生き方です。 健康であるならば、あらゆる「苦」の侵入に対して、跳ね返す勢いがあり、 また侵入してきた「苦」を追い出すことができる。 右は「幸せな人生」は「安心していること」が土台にある生き方です。 安心しているから、あらゆる「苦」に対立したり否定したりしない。 そこに「安心して苦しむ」という営みすら起ることもある。 寝たきりの前住職のお尻をふいていて、というか、お尻を拭かれている前住職の「安心しているような」姿を見て、そんなことを勝手に想像していました。 ちなみに「安心」は「あんじん」と読みます。 「健康」のほかに「家族」「友人」「経済」が、土台になりそうですが、全部当てになりませんというのが、お釈迦様の見方です。 いつまでも健康でいられるわけが無い。いつまでも家族が家族のままでいられるわけが無い。親友だからといっていつまでも仲良くいられるとは限らない。いつまでもお金があるわけが無い。ほらね。  
「今週末は厳しそうです」の画像
2021年12月24日 04時48分
「欲深き 人の心と 降る雪は 積もるにつけて 道を忘れる」(高橋泥舟) 高橋泥舟(でいしゅう)は、幕臣の山岡正業の次男に生まれて、母方の実家高橋家をつぎました。妹の英子の夫が無血開城の立役者である山岡鉄舟であり、泥舟の義弟になります。 山岡家は槍術に長じていたということで、やはりそこは対人の世界。「人を観る目」「己を観る目」が秀でていたと思われます。  
「あたりまえ」の画像
2022年06月08日 00時48分
母が昨年ガンを見つけてもらって、抗がん剤治療ののちに手術・入院を経験した時の話です。 入院中は「なんで自分がこんな目に」という思いだったそうですが、たくさんの同じような患者さんを見てきて、今の自分の状況を特別と感じる思いが薄くなった、と話してくれました。 そして、退院後の自宅で一泊した翌朝、目が覚めたことを「奇跡」を感じたそうです。 あたりまえの反対は「ありえない」「奇跡」転じて「有難い(有ること難し)」です。この逆転現象を味わった人は、生きることが少し楽になるかも知れません。 皆様のご意見を聞かせてください。
「雨土となれ。」の画像
2022年01月02日 09時30分
ある席で総代さんと法座のご講師が話をしていました。 内容は聞こえませんでしたが、ご講師の「蝉に生まれたくないでしょ?」とおっしゃったのだけはクリアに聞こえました。 蝉だって一つの命。いや蝉の方が蝉を全うしている。それに引き換え、私は「私という人間」を全うしているか。そんなことを思うと、むしろ蝉の方がマシのようにも思われます。 あるご門徒さんが亡くなる前に「今度は鳥に生まれたい」とおっしゃっていました。ずっと足が悪かったから、自由に大空をはばたくイメージを持っていたようです。 さて、ご講師のこの一言。 これは「助けられる側(衆生)から、助ける側(仏さま)への転換」を意味します。仏教が「さとり」を目指すのは、この「一切の命あるものを救済する存在になる」ことを目指すことにほかならないのです。 今日のお通夜の方が、「生きとる間にみんなの喜ぶ顔を見ておきたい」といいながら、95年の命を全うされました。  
「一度であるが」の画像
2021年12月14日 06時40分
子どものクリスマスプレゼントを探すのに 親子でパソコンとにらめっこ。 私のころは、このシーズンを狙って 新聞のチラシの中におもちゃ屋さんのがあって、 雑誌のように持ち歩き、何度も見返したり、 切り取ったりしていました。 ネットにはまだ慣れていないかもしれません。 さて、子どもたちの日常を見ていると、 誕生日やクリスマス、発表会、試験など、 「特別な日」があることによって 張り合いのある一年が過ごせるのだろうと 思います。 そして、それは大人も同じことです。 だから、大みそかと元旦も同じ日として見られません。 そういうものですね。 さて、仏様のまなざしも「同じ日」として ご覧になっておられません。 しかし、私たちのように、日々にメリハリも つけられません。 毎日が、二度と戻らない「特別な日」と 教えてくださいます。 問題は、それを聞いても一日を「普通に過ごす私」。 「死に直面しないと気づけない私」。 どこまで行っても真実に昏(くら)い私です。
「荷物をたくさん抱えているなら」の画像
2021年10月09日 12時20分
およそ「学校」と呼ばれる所は、 様々な知識と技能を身に付けて、いわゆる「賢くなって」卒業します。 お寺の本質は、この逆です。 垢のように身を覆う、「私中心の価値観」を外すのです。 学校は足し算、お寺は引き算。 この感覚こそが、お寺参りのベースにあってほしいものです。 ちなみに、有名な御文章の「白骨の章」で 「夜半(よは)の煙となしはてぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。 あはれといふも、なかなかおろかなり」とありますが、 この「おろか」は「言葉で言い尽くすことが出来ない」という意味です。  
「思われている」の画像
2021年09月28日 23時42分
お彼岸は、お盆と正月に続いてお墓参りの人の多い時節です。 この時にしかお会いできないご家族とは、会釈程度なので、なんだかソワソワします。 子どもさんがいらっしゃるときは、「ラムネ」を渡します。 ブドウ糖は脳にとてもいいらしいですね。 さて、掲示板のことばですが、私たちはついつい「自分中心」の世界にとどまりがちです。例えば、誰かとの会話の時、主語の抜けた言葉を聞くと、思わず「私」に置き換えます。また、集合写真を見る時は、誰よりもまず自分を探し、写真写りを確認しがちです。 私の思いを離れる。 すると、誰かの思いの中に私を見つめることになります。 この視点が、安らぎと軽やかさをもって生きるヒントでありましょう。  
「「わたし」をこえて。」の画像
2021年05月17日 17時08分
誰しもが、自分の努力なしにはここまでこれなかったかもしれないと思いたいものです。いや、実際その通りかもしれません。 その誇らしい思いの向こう側に、「おかげ様」が待っています。
「トライ&エラー。」の画像
2021年05月12日 17時07分
唐鳳(オードーリー・タン)は台湾のデジタル担当大臣です。 インターネットを駆使して、台湾全国民のマスク購入を実現させました。 経歴などは他のサイトで調べてみてください。 私がオードリーに共感するのは、 「私たちは弱い生き物であると認める」という考え方です。 それを支援するのがコンピューターである、と。 「完璧にするのはやめろ」とはかなり強い思いを感じます。 自身の思い通りにならなかった生き方も背景にあるでしょうが、 言い方を変えれば「○○せねばならないことなどないよ」というふうにも聞こえます。 「トライ&エラー」は、膝の治療を担当してくれたラガーマンの理学療法士がかけてくれた言葉です。 痛みが引いたと思って運動したら、翌日になってまた痛み出したという日を過ごしていた時に「それでいいです。OKです」と言ってくれました。 「試行錯誤」ですね。 失敗することも受け入れて、それでもあきらめないで試してみる。 仏教に「自力のはからい」というものがあります。 差し込む光を遮断しているのは、案外自分自身なのかもしれません。
「迷いながら…」の画像
2021年05月01日 11時28分
 ある男の子が、宿題をしていないという理由でお母さんに叱られました。 「いつまで同じことを言わせるの、早く済ませなさい」 すると男の子は母親に「どうして宿題をしなければならないの」と 理由をたずねました。お母さんは 「宿題とは『担任の先生とのお約束』です。約束を守れない人間は友達もいなくなってしまうし、仕事も出来ません。仕事ができないとほしいものが買えません。それでもいいの?」 と聞き返しました。次の男の子の答えが明快です。 「ぼくは先生と約束した覚えはない!」 大人の都合を中心に、子どもをコントロールしていないか、 その最も代表的な都合が「善悪」の判断基準です。 「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり」 (何が本当に善で、本当に悪か、私にはわかりません)(親鸞聖人)  
「ご法事のこころ」の画像
2021年03月31日 14時12分
なつかしい思いに心の動きをまかせましょう。 同じ思い出を横のつながりで共有します。 語り継ぎましょう。 お子さんやお孫さんが「耳タコ」な顔をされても語るのです。 かつての思いを縦のつながりで共有します。 決して忘れまいと誓いましょう。 ・・・無理ですね。忘れていいです。  
「暴く。」の画像
2021年03月10日 17時07分
酒がその人をアカンようにするのではなく、その人がアカン人だと酒が暴く たしか立川談志氏の言葉だったように思います。 アカンとは、道徳的、倫理的つまり「人としてNG」という意味でなく、 「理性で自我をコントロールできない」ことです。 他にもたくさん名言(迷言?)を残してますね。 「努力して良くなるなら、世の中みんな良くなってるはずですよ」 「就職なんて心配するな。落語家になってしまえ」 「鳥もちと屁理屈は、どこにでもひっつく」 「癌は未練の整理にいい」 「人間関係は、いい誤解か、悪い誤解」 ほかに色々ありました。 なかでも私がうなったのは、「落語とは人間の業の肯定」です。 落語の題材は、「失敗話」です。なぜ失敗したかというと、「業」です。 煩悩、欲望、わかっちゃいるけどやめられない世界に「オッケー」なのですね。 そうか。これを仏教でいうと「仏教とは人間の業への諦め」でしょうか。 平たく言うと「しゃあないなぁ」ということです。 理性で自我をコントロールすることができない人を、「悪人」と呼んだのです。  
「いまだけ。」の画像
2021年03月02日 17時08分
日本の幽霊の描写は象徴的だと聞いたことがあります。 「髪が長い」・・・後ろ髪をひかれている(過去への執着) 「前方に垂れた手」・・・将来を思い煩っている したがって、「足がない」・・・「いま」を生きていない 昔からの教えにこそ、現代を生きる上でのエッセンスが詰まっていそうです。