2022年06月08日 00時48分
母が昨年ガンを見つけてもらって、抗がん剤治療ののちに手術・入院を経験した時の話です。
入院中は「なんで自分がこんな目に」という思いだったそうですが、たくさんの同じような患者さんを見てきて、今の自分の状況を特別と感じる思いが薄くなった、と話してくれました。
そして、退院後の自宅で一泊した翌朝、目が覚めたことを「奇跡」を感じたそうです。
あたりまえの反対は「ありえない」「奇跡」転じて「有難い(有ること難し)」です。この逆転現象を味わった人は、生きることが少し楽になるかも知れません。
皆様のご意見を聞かせてください。
2022年01月02日 09時30分
ある席で総代さんと法座のご講師が話をしていました。
内容は聞こえませんでしたが、ご講師の「蝉に生まれたくないでしょ?」とおっしゃったのだけはクリアに聞こえました。
蝉だって一つの命。いや蝉の方が蝉を全うしている。それに引き換え、私は「私という人間」を全うしているか。そんなことを思うと、むしろ蝉の方がマシのようにも思われます。
あるご門徒さんが亡くなる前に「今度は鳥に生まれたい」とおっしゃっていました。ずっと足が悪かったから、自由に大空をはばたくイメージを持っていたようです。
さて、ご講師のこの一言。
これは「助けられる側(衆生)から、助ける側(仏さま)への転換」を意味します。仏教が「さとり」を目指すのは、この「一切の命あるものを救済する存在になる」ことを目指すことにほかならないのです。
今日のお通夜の方が、「生きとる間にみんなの喜ぶ顔を見ておきたい」といいながら、95年の命を全うされました。
2021年12月14日 06時40分
子どものクリスマスプレゼントを探すのに
親子でパソコンとにらめっこ。
私のころは、このシーズンを狙って
新聞のチラシの中におもちゃ屋さんのがあって、
雑誌のように持ち歩き、何度も見返したり、
切り取ったりしていました。
ネットにはまだ慣れていないかもしれません。
さて、子どもたちの日常を見ていると、
誕生日やクリスマス、発表会、試験など、
「特別な日」があることによって
張り合いのある一年が過ごせるのだろうと
思います。
そして、それは大人も同じことです。
だから、大みそかと元旦も同じ日として見られません。
そういうものですね。
さて、仏様のまなざしも「同じ日」として
ご覧になっておられません。
しかし、私たちのように、日々にメリハリも
つけられません。
毎日が、二度と戻らない「特別な日」と
教えてくださいます。
問題は、それを聞いても一日を「普通に過ごす私」。
「死に直面しないと気づけない私」。
どこまで行っても真実に昏(くら)い私です。
2021年10月09日 12時20分
およそ「学校」と呼ばれる所は、
様々な知識と技能を身に付けて、いわゆる「賢くなって」卒業します。
お寺の本質は、この逆です。
垢のように身を覆う、「私中心の価値観」を外すのです。
学校は足し算、お寺は引き算。
この感覚こそが、お寺参りのベースにあってほしいものです。
ちなみに、有名な御文章の「白骨の章」で
「夜半(よは)の煙となしはてぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。
あはれといふも、なかなかおろかなり」とありますが、
この「おろか」は「言葉で言い尽くすことが出来ない」という意味です。
2021年09月28日 23時42分
お彼岸は、お盆と正月に続いてお墓参りの人の多い時節です。
この時にしかお会いできないご家族とは、会釈程度なので、なんだかソワソワします。
子どもさんがいらっしゃるときは、「ラムネ」を渡します。
ブドウ糖は脳にとてもいいらしいですね。
さて、掲示板のことばですが、私たちはついつい「自分中心」の世界にとどまりがちです。例えば、誰かとの会話の時、主語の抜けた言葉を聞くと、思わず「私」に置き換えます。また、集合写真を見る時は、誰よりもまず自分を探し、写真写りを確認しがちです。
私の思いを離れる。
すると、誰かの思いの中に私を見つめることになります。
この視点が、安らぎと軽やかさをもって生きるヒントでありましょう。
2021年05月17日 17時08分
誰しもが、自分の努力なしにはここまでこれなかったかもしれないと思いたいものです。いや、実際その通りかもしれません。
その誇らしい思いの向こう側に、「おかげ様」が待っています。
2021年05月12日 17時07分
唐鳳(オードーリー・タン)は台湾のデジタル担当大臣です。
インターネットを駆使して、台湾全国民のマスク購入を実現させました。
経歴などは他のサイトで調べてみてください。
私がオードリーに共感するのは、
「私たちは弱い生き物であると認める」という考え方です。
それを支援するのがコンピューターである、と。
「完璧にするのはやめろ」とはかなり強い思いを感じます。
自身の思い通りにならなかった生き方も背景にあるでしょうが、
言い方を変えれば「○○せねばならないことなどないよ」というふうにも聞こえます。
「トライ&エラー」は、膝の治療を担当してくれたラガーマンの理学療法士がかけてくれた言葉です。
痛みが引いたと思って運動したら、翌日になってまた痛み出したという日を過ごしていた時に「それでいいです。OKです」と言ってくれました。
「試行錯誤」ですね。
失敗することも受け入れて、それでもあきらめないで試してみる。
仏教に「自力のはからい」というものがあります。
差し込む光を遮断しているのは、案外自分自身なのかもしれません。
2021年05月01日 11時28分
ある男の子が、宿題をしていないという理由でお母さんに叱られました。
「いつまで同じことを言わせるの、早く済ませなさい」
すると男の子は母親に「どうして宿題をしなければならないの」と
理由をたずねました。お母さんは
「宿題とは『担任の先生とのお約束』です。約束を守れない人間は友達もいなくなってしまうし、仕事も出来ません。仕事ができないとほしいものが買えません。それでもいいの?」
と聞き返しました。次の男の子の答えが明快です。
「ぼくは先生と約束した覚えはない!」
大人の都合を中心に、子どもをコントロールしていないか、
その最も代表的な都合が「善悪」の判断基準です。
「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり」
(何が本当に善で、本当に悪か、私にはわかりません)(親鸞聖人)
2021年03月31日 14時12分
なつかしい思いに心の動きをまかせましょう。
同じ思い出を横のつながりで共有します。
語り継ぎましょう。
お子さんやお孫さんが「耳タコ」な顔をされても語るのです。
かつての思いを縦のつながりで共有します。
決して忘れまいと誓いましょう。
・・・無理ですね。忘れていいです。
2021年03月10日 17時07分
酒がその人をアカンようにするのではなく、その人がアカン人だと酒が暴く
たしか立川談志氏の言葉だったように思います。
アカンとは、道徳的、倫理的つまり「人としてNG」という意味でなく、
「理性で自我をコントロールできない」ことです。
他にもたくさん名言(迷言?)を残してますね。
「努力して良くなるなら、世の中みんな良くなってるはずですよ」
「就職なんて心配するな。落語家になってしまえ」
「鳥もちと屁理屈は、どこにでもひっつく」
「癌は未練の整理にいい」
「人間関係は、いい誤解か、悪い誤解」
ほかに色々ありました。
なかでも私がうなったのは、「落語とは人間の業の肯定」です。
落語の題材は、「失敗話」です。なぜ失敗したかというと、「業」です。
煩悩、欲望、わかっちゃいるけどやめられない世界に「オッケー」なのですね。
そうか。これを仏教でいうと「仏教とは人間の業への諦め」でしょうか。
平たく言うと「しゃあないなぁ」ということです。
理性で自我をコントロールすることができない人を、「悪人」と呼んだのです。
2021年03月02日 17時08分
日本の幽霊の描写は象徴的だと聞いたことがあります。
「髪が長い」・・・後ろ髪をひかれている(過去への執着)
「前方に垂れた手」・・・将来を思い煩っている
したがって、「足がない」・・・「いま」を生きていない
昔からの教えにこそ、現代を生きる上でのエッセンスが詰まっていそうです。