2022年10月28日 10時38分
月下美人が咲きました。
夜中に咲くものと思っていましたが、ただいま午前10:30。何とも言えない高貴な姿です。咲いてもやはり「この世らしからぬ雰囲気」を醸しています。
メキシコ原産(品種改良なし)なので、お釈迦様の国にはないですが、あればきっとお経にも登場していただろうなと思います。
山門入って右手に、期間限定(あと一週間くらい)で置いています。どうぞお楽しみください。
2022年10月28日 04時32分
別のお寺さまから月下美人をお借りしました。
以前、ご門徒さんの家で教えてもらい、「夜中に白い花が咲く」と聞いて、こっそり見に行かせてもらったことがあります。
10/28の4:00撮影。
もう少しかな?
しかし、葉の形状が特殊すぎて、ちょっとこの世ならざるものを感じます。
リュウゼツラン(60年に一度開花)といい、観音様の御開帳といい、私たちは「特別なタイミング」を好みますね。
明日も楽しみです。
2022年10月17日 16時59分
私の出身地は長野県飯田市です。
むかしむかしの長野県(信州)と言えば、昆虫食のメッカ。
食料が無い中での重要なタンパク源です。
小学校の給食室の前に、このポスターが貼ってあり、
「伊那市観光協会」の字を見て嬉しくなり、一枚。
さて、以下のことを追記しておきます。
①2020年に無印良品が「コオロギせんべい」を販売して注目を浴びた
②食糧危機や環境保護の視点から、市場を拡大しつつある
②「昆虫食市場規模」は70億(2019)から1000億(2025)になると予測されている(日本能率協会総合研究所)
③その理由は「養殖コスパが抜群に良い」「栄養価が抜群に高い」
たしかに、「ありのままの姿」では抵抗があるかもしれませんが、パウダー状にすれば問題なさそうです。近い将来、食品パッケージの裏面に「コオロギ」「スズメバチ」「バッタ」「セミ」「タガメ」など入っていてもおかしくないでしょう。
昔から昆虫を食べてきた日本人にとっては、受け入れられやすいものかもしれません。
2022年10月09日 04時44分
この地域では、葬儀の際にお棺の中に「尊号」を入れます。
中身は「南無阿弥陀仏」です。
いつでもどこでも阿弥陀如来と一緒だよ、ということを、残された私たちも改めて確認しようというものです。オフダのように、これ自体に霊力は備わっていません。
ところが最近、新たな課題が。
家族葬が進む中で、「院号は結構です」とおっしゃる家がありました。お棺の中に、この尊号を入れると「ですから、院号は結構です」と言われることがあるのです。
事情を説明すると納得してくださいますが、ようするに「伝わっていない」のです。
改めて思うに儀礼というものは、一つの所作、一つの道具に、いちいち説明をせず「昔からやっているから」という理由で続いているものがほとんどだろう、ということです。
時間短縮や効率を求める私たちが、「意味」や「価値」のわからないものを、この先何年も守り伝えていくことができるのでしょうか。
2022年10月07日 05時34分
駐車場と並行して、納骨施設3基目を建てます。
場所は、境内墓地北側の花壇です。
ここに安置されている、「旧本堂鬼瓦」を撤去するのですが、昔はこんな瓦をよく人が求めた、という話を聞きましたので、皆さまにご案内いたします。
ちなみに、100年前に再建した本堂の瓦です。(現在の現役瓦は、平成5年に敷かれました)
先着です!宜しくお願いいたします。
2022年10月06日 16時05分
駐車場増設工事が始まりました。
子どもたちが掘った落とし穴よりも深く…。
完成予定は11月15日です。
これで報恩講をお迎えできる…(ホッ)
★工事中は「お寺側」にご駐車をお願いいたします!
2022年09月28日 05時11分
9/12、子どもの小学校の登校班だけで「アキマツリ」開催。
本来なら広くお声掛けするべきですけど、
コロナが心配で、縮小版。
けれど、何もしないと寺のパワーも落ちてしまうので実施。
子どもたちが大人になって
「よく寺で遊んだなぁ」
と思ってもらえることが、双方の財産です。
2022年09月27日 07時35分
今年のプロ野球セ・リーグは広島、巨人、阪神が、自力でクライマックスシリーズに進めなくなったことをうけて、「他力本願シリーズ」という言葉が飛び交っているようです。
他力本願は浄土真宗の大切な言葉。
「他力本願シリーズ」もちろん誤用なのですが、こんな形でも使ってもらえることで話題提供になるので、ま、いっか、と思ってしまいます。
さて、自力と他力は、仏教でも中心話題の一つですが、以下のように整理を試みて、皆さまのご理解を得られたらと思います。
自力(自分の努力が必要なもの):家の掃除。趣味や研究。健康維持。
自他力(自分の努力以外に多要素が含まれるもの):親族や友人、地域の付き合いなど人付き合い。交通事故。会社。天災。病気。
他力(自分の努力ではどうにもならないこと):生まれてきたこと。老いること。死ぬということ(健康維持の努力によって長生きする人も、死を先延ばしできているに過ぎないという見方)。
「努力」というよりも、「コントロール」と言った方がよいでしょうか。上記の分類は全くの試験的私見(ダジャレ)なので、人によって分け方は違いましょう。皆さんの意見も聞かせてください。
この試みで分かったことは、
「100%の自力ということは、ないのではないか」
ということです。
例えば、ダイエット用のお茶を飲むとします。
「これは私が働いたお金で買ったお茶だ。結構高かった」という価値観の人、「茶葉を育て、加工し、運搬され、あらゆる人の行為の上にあるお茶だ」という価値観の人、様々です。
社会(この世)にいるということは、他者と何らかのかかわりをもって生きている、ということです。互いに作用しながら存在している。
浄土真宗は、このような「〇割自力、△割他力」と理解されるような世の中にあって、「100%他力」を説くとんでもない宗教であります。
ちなみに「他力」とは阿弥陀如来のはたらき、「本願」は阿弥陀如来が阿弥陀如来であるために設定した48の項目の「18番目」、という意味です。
2022年09月25日 22時18分
たくさんの学びを得ることができました。
皆さまとも共有を。
①「地域づくり」「地域の活性化」を考える時、それは「町おこし的な行事」のことではなく、お互いに困ったときに助け合える関係づくりを指す。
②これから日本の人口は急減(×減少)し、2060年までに4000万人減となる。(間違いないらしい)
③「青年部」「女性部」「老人会」「ボランティア」などが解散しているのは全国共通の話題であり、その原因は「なり手不足」であると言われる。
④③を受けて、これからは「役職を減らす」「それぞれの行事を統合する」というのがキーワードになる。
⑤上の写真は、ある町内で参加者の少ない「町内運動会」「防災訓練」を統合した例。運動会の朝の号砲を災害発生の合図にして、全員グラウンドに集合。「選手宣誓」を「安否確認」とする。競技の中に『バケツリレー』『騒音集音機を用いて大声合戦』を入れる。お楽しみの昼食は災害時を想定しての炊き出しをみんなで作る。(めちゃくちゃ楽しそうなんですけど!)
⑥こうして課題をクリアしていく自治体の人たちは、いつも「楽しそう」「笑顔」であることが共通点である。
実際に私たちもワークショップをしてみました。
黄色の付箋は「私たちの町のいいところ」を1人何枚も書き上げます。
続いてピンクの付箋は「私たちの町の課題」を同様に書き上げます。
この2枚は不思議と、共通しているのです。
例えば、「消防団が頑張っている」と黄色で書きながら「なり手不足」「頑張りが認知されていない」など”裏表”の顔が見えてきます。
私は今回、コロナの恐ろしさを痛感しました。それは「やはり私たち人間は、『対面で話し合う』ことが何よりも意義のあることである」ということを教えられたからです。
どんな話題でもいい。どんな形でもいい。とにかくおしゃべりしていればいいんだ、と思いました。
2022年09月24日 08時00分
昨日、本当に久しぶりの法要がありました。
法要は「法座」とか「お座」とも言います。
私がいつも感激を込めて思うのは、皆さまがご自身の意思で参っておられる、ということです。法事も意思といえばそうかもしれませんが、どちらかといえば「故人のためにしなければならない」ような感覚があると思います。それに対して法座は、誰のためといえば自分のためです。
今回の話「も」、わかるようなわからないような話だったかもしれませんが、皆さまの意思で参られたということがすでに、阿弥陀さんとご縁が持てたということでいいだろうと思います。
とにかく、こういう形でお会いできることが何よりうれしく思います。
本当にうれしい。ありがとうございました。
しばらく使っていなかった香炉に、手形が。
白状はしていませんがウチの3番目です。間違いない。
こういう形で阿弥陀さんとつながる方法もありました。
2022年09月22日 12時58分
今年は
本堂建立100周年
です。
これを皮切りに、当山福泉寺は
「報恩講1日法要⇒3日間法要」
に切り替えます!
近所の住職さんが
「いいね!時代に逆行して」とお褒めくださいました。
当日、子どもたちにも法衣をまとっていただきます。
「毎年12月の第1日曜日」、とご案内している報恩講ですが、
①いつやるか知らない
②何のためにやるか知らない
③誰のためにやるか知らない
④当番以外行ったことがない
⑤案内をもらっているが、行ったことがない
方が、まだまだ多いです。
皆さまの人生の
支え、癒し
励まし、スパイス
になる法要を目指します。
ちなみに、当番に当たられた地域の皆さまは
「負担が増えそうだ・・・」
と思われるかもしれませんが、ご安心ください。
むしろ、どんどん負担が減っていくようにしています。
とにかく、お参りしてほしい。それだけです。
2022年09月16日 05時31分
東京駅、品川駅に立ち寄りましたら、地元企業の広告が大々的に掲げてありました。
こういう時、「誇りに思う」のですが、
私の手柄は一つもないのに、どうして誇りに思うのかな、と思いました。
調べてみると、
「必ず自分も関わっている」
ということがあるのだそうです。
そうだ。「私が住んでいる」ということで関わっていたのか。
であるなら、
「お釈迦様を誇りに思う」
「阿弥陀さんを誇りに思う」
「親鸞聖人を誇りに思う」
という表現は、ありか…。
使ってみると、今までにないような新鮮な距離感を感じます。
2022年09月15日 05時01分
休日に服部川の上流に出かけました。
虫嫌いの子供3人が、川好きという皮肉・・・。
好きと嫌いが混在すれば、決まって「嫌いが勝る」と思っていましたが、そうばかりではないかもしれない、と最近は思うようになりました。
今日は網を持ってたくさんの小魚(ハヤ)をキャッチ&リリース。
2022年09月15日 04時02分
首元の赤は、けがや病気の症状ではありません。
友人の奥さんが、マッサージの一環で「カッサ」を施してくれました。
(カッサとは←クリック)
ちなみに、左側の首筋も同様に擦ってくれましたが、少し赤くなっただけ。
中国の療法だそうですが、実に不思議です。
赤くなったということは、老廃物や疲労蓄積が認められた、ということだそうですが、思い当たるフシだらけで、ぐうーの音も出ません。
さて、急に話を変えますが、親鸞聖人は「煩悩の盛んな我ら」とおっしゃられました。
これは、「私には欲深い部分もあるが、いいところもある」などという生やさしいものではありません。
「私」ー「煩悩」=0
の図式で成り立つ姿です。
阿弥陀如来の救済の仕組みは、この図式に対してぐうの音も出ない私自身の発見と抱き合わせなのです。
2022年09月14日 12時48分
コロナ禍の影響を受けて、町内のボランティア団体が解散したそうです。
私の感想は「コロナのせいというよりも、いつ消滅してもおかしくない状況が長く続いていたのではないか」ということです。
それを、また立ち上げる人が出てきたのは、形はどうあれ救いです。
さて、全国のボランティアについて、こんな数字があります。
2015年⇒全体の17%しか参加していない
2018年⇒全体の17.4%と変わっていない
このような、日本人のボランティア参加率の低さの要因は
「時間がない」
「参加するための情報が少ない」
というものです。
カネにならないものへのモチベーション低下。
「誰かのため」という利他思想の消滅。
ということで、お寺にもお声がかかったのですが、
まずは子どもたちのために汗を流そう、ということで
①夏のラジオ体操は夏休み全期間、ジジババもやろう
(ちなみに今年は3日間でした)
②下校時に給水ポイントを作ろう
(特に夏季の片道3~4kmは危険です)
まぁ、できる範囲でコツコツしようと思います。
2022年09月13日 05時47分
ホームセンターにあった組み立て式ベンチを子どもと作りました。
ちょうどいい!
これから、いたるところに置こうと思います。
福泉寺公園。
さて、ちょっと気になって調べてみたのですが、
禅宗の「ザゼン」といえば、「坐禅」と書きます。
昭和31年に「当用漢字表」に
坐⇒座
に統一されたそうですが、それでも坐禅と書きます。
これがどうしてなのかを調べました。
「坐」は「人+人+土」で、地面に尻をつけること。
「座」は、「广(いえ)+坐」で、家の中で人が座る場所。
言い換えると
「坐」が動詞、「座」が名詞として用いられていました。
つまり
場所にこだわらず、どこでも禅が組めるぞ、ということなのでしょうか。もっといえば、何をしていても禅が組める、坐っていなくても、ということでしょうか。
何かに限定しないのが仏教の素敵なところです。
2022年09月12日 05時53分
これは楽しそう。
何が楽しそうかって
独りでこれをするひととき!
早速買い求めました。
2022年09月10日 05時51分
涼を納(い)れる。
素敵な言葉です。
過日、お参りに行きましたお宅で、自作のクーラーを見せてくれました。
これがすこぶる涼しい。
「10時間は持ちます。これを寝る間にかけておくんです」
100円ショップの箱の中には保冷剤が入っており、箱に穴をあけて、小型の扇風機の風が箱の中をやさしく通ってきて、心地いいです。
そう嬉しそうにお話しくださったのですが、娘さんがエアコン嫌いのおかあさんを思って作ってくれたそうなのです。いいな。
ご主人に先立たれて、長らく独りの生活ですが、いつも優しい雰囲気でお迎えくださいます。人生の先輩。学ばせていただいています。
2022年09月09日 11時40分
お参りの方が少しでも涼しく過ごせますように、ということで、水場に霧の出るホースを取り付けました。蛇口の使いやすさを追求するために遅めの稼働になってしまいました。
さて、「涼を取る」という言葉は何となく聞き覚えがありますが、調べてみると他にも「涼を納(い)れる」というものがありました。
ああ、これが「納涼」の意味なんだ、とガッテン。
「とる」、というよりも「いれる」というほうが、何となく好きです。なぜなら、手を伸ばして、何とかつかみ「とる」に対して、ある意味与えられているものを「いれる(いただく)」というイメージがあるからでしょうか。
・・・とにかく、涼しくなるなら何でもいいか(笑)
2022年09月07日 12時59分
学校の「総合的学習」の内容が寺社の調査だったらしく、近所の中学生が訪問してくれました。
事前の電話、日程の調整から当日の質問など、一貫して丁寧な言葉遣いをしており、十分に研修を受けて臨まれたのだろうと、新鮮で身の引き締まる思いがいたしました。
ちょっとサービスで、宗教の込み入った話をすると困惑されたので、控えめに話しました。
終盤にお茶とアイスクリームを出したら
「え?!お寺にアイスがあるのですか?」
「え?!本堂でいいんですか?!」
「いいよいいよ、どうぞー」
お寺は神聖な場所だけれど、遊び道具もあるし、こんなに開かれたところなんだ、というカルチャーショックをお土産代わりに、最後まで手を振って帰っていきました。
2022年09月07日 10時40分
私は現在、千葉に住むの母のところにいます。
そのことはまた後に譲るとして…
今年の8月は、激動のひと月でした。
初めに、次女と坊守(妻)の感染、そこから約半月、炊事・洗濯・掃除に加えて、子どもの宿題を見ながらお参り。さらに今月の葬儀が多かったため、断腸の思いでお盆法要を中止。
数々のご迷惑をおかけしてすみませんでした。
そんな中、「今日は朝ごはんのことは考えなくてもいいからね」と山門や玄関前にたくさんの食糧が置いてあったのを見たときは、不意に落涙。
感謝しかありません。
また、ゴミ出しの時に「収集業者の方々は、感染者のゴミもいつものように回収しているのだ」「自分に同じことができるだろうか」と不意に思い起こし、思わずゴミステーションに合掌。
そんな中でも、これは、と思うものを写真に収めてきました。今やっと、少し時間にゆとりができたので、駄文ですが少しずつ配信していきます。
2022年07月21日 04時10分
コロナを経て、土に親しむご縁を得ました。
皆さまのご協力のもと、境内の花のほかにも、鐘楼の裏に菜園を設けました。
当初、雨が降れば「水やりせずに済んでラッキー♪」なんて思っていましたが、今度は草取りをせねばならんという状況。楽あれば苦あり。
さて、トマトですが、どうも水をそんなに上げない方が甘みが増すように思います。今日のお参りでは「水不足くらいの方が根が水を求めて伸びますので良いです」とアドバイスをいただきました。
といっても、屋根もない菜園なので、まったく天候次第なのですが。
そうはいっても店のトマトのように、出荷・販売を見越して半熟で収穫せず、完熟状態での収穫なので、味が全然違いますね。
「水不足くらいがちょうどいい」
この話を聞いて、「これは誰の人生にも当てはまりそうなことだ」と思いました。
2022年07月20日 06時38分
娘の部屋に入ってみたら、仏さまの写真が貼ってありました。
カレンダーを切り取って、大切に保管しているようです。
ちょっとおかしくて微笑ましい一面です。
さて、こんな仏さまがどこにあるのかという話ですが、
仏教では「仏の三身」を説きます。
①法身(ほっしん)
宇宙の絶対的真理。色・形はない。
②報身(ほうじん)
法身を悟った人格を持った存在。
色・形は、見える人見えない人さまざま。
③応身(おうじん)
現世に姿として現れた存在。
いわゆるお釈迦さま。
しかしそもそも、仏さま(真理)を分割して語ることはできないので、「三身すなわちひとつなり」と説かれます。
仏像に手を合わせると「これは偶像崇拝ではないか」という人がいますが、仏像を通して「仏像の向こう側」に手を合わせる、というダイナミックさが、仏教にはあるのです。
お墓も同じかもしれません。
「お墓の向こう側のご先祖さまの、そのまた向こう側」に手を合わせるのです。
2022年07月19日 05時47分
朝、子どもたちと本堂で遊んでいました。
すると、お子さん連れのご夫婦が。
「近くに住む友人の家に行くまでに、時間があったので立ち寄ってみました」
この写真でお分かりのように、
ご夫婦の雰囲気に一気に引き込まれました。
「お賽銭箱はありますか?」
本堂にご案内している間に、娘に焼香の準備を頼みました。
息子はゲームに夢中。
聞けばこのご夫婦、岡山のご出身だそうですが、コロナを機に1年半前に沖縄県の読谷村に移住されたとのこと。岡山ー東京間の新幹線代よりも沖縄ー東京間の飛行機代の方が安いのだそうです。仕事は変えずにリモート。テレビの向こう側の話のように興味深く聞きました。
「ただ、実家のお墓は気になっています」
お二人は故郷を捨てたわけではないと思われたので、「墓は大切です。けれど、今生きている私たちの足かせになっては『本来の墓の意味』が損なわれそうです」というような趣旨の話を少しいたしました。
仕事やご住所はもちろん、お名前すらうかがわずの、10分ほどのひとときでした。が、何となく、「再会するご縁は必ずある」と思って、お見送りしました。
息子はずっとゲームに夢中でした。
今はゲームが楽しいだろうけど、人との出会いの方がずっとずっとエキサイティングなんだよ。
またいらしてくださいね。うれしかったです。
2022年07月16日 06時48分
広島市に在住の門徒さんのところにお参りに行ってきました。
ご主人は先日、御年90を迎えられ、ご夫婦で音楽の世界に長年いらっしゃいました。
奥様は近所の真宗寺院で開かれる「お経会」に歌の担当として月一回通っておられるそうです。
その際に、みんなで歌える「懐かしい歌」を毎月4曲用意します。
「お寺さん知らないの?若いわねぇ」と言われました。見れば、昭和25年「あざみの歌」大正9年「浜千鳥」大正4年「ゴンドラの唄」…
大正時代の歌は、ワルツ(三拍子)が多い印象です。なんだか足取りが軽くなりそうな、ルンルンになるようなリズムです。ということは、「せめて歌だけでもルンルンに」という厳しい時代を想像します。
さて、「懐かしい」というのは、過去の事実だけでなく、その時の自分の感情とか考え方も含めるように思います。
そういえば10年ほど前、父に代わってお参りをするようになったころ、久しぶりに父が法事でご当家に参った後日に伺った時、そこの奥様に
「この間、とても久しぶりに住職さんのお経声を聞きました。なんだかとても懐かしかった」
と言われて、衝撃を受けたことがあります。
私がどんなにお経を一生懸命読もうとも、この『懐かしさ』は手に入らない。そんな思いがして、読経の上手・下手へのこだわりから少しずつ離れることができるようになったように思います。
2022年07月14日 06時01分
お盆参り中に、スズメが水遊びしているところを見つけました。
順番待ちをしているような姿もかわいかったです。
今年も暑いよね。
鳥が水浴びをする理由は、羽についた汚れや寄生虫を取り、また体温を下げるためだそうです。ほかにも砂浴びもするそうですが、スズメのように水浴びも砂浴びもする鳥は珍しいそうです。
鳥にとって羽は、飛翔、体温調節、衝突時の緩衝など、致命的に大切なものです。
だから、常の手入れは欠かせません。
さて、私たちにとって「致命的に大切なもの」は何でしょう。
スズメと同じように、わが身を守るための「健康」は欠かせません。また、社会的な存在ですから、「人間関係」も欠かせません。そしてそれを担保する「経済」です。
でも、本当にそれだけで十分だろうか。
そのことに疑問を抱いて、出家をされたのがお釈迦さまでした。
導き出された結論は何だったのでしょう。
2022年07月13日 05時39分
葬儀のために福岡県久留米市に向かいました。
早速余談ですが、私が福泉寺に入寺した当初、住職から「東京や山口など、いろいろなところに葬儀に行かせてもらった」という話を聞いて、
「近くの同じ宗派のお寺に頼めばいいのに。そんな遠くまで出向いて、ご門徒さんの負担を考えていらっしゃらないのか」
というのが、その時の私の感想でした。
今回の久留米市のご門徒さんは、駅家町上山守のご出身です。ご高齢のお母さまを2年前に久留米に呼んで、近くでお世話をされていました。
私はご門徒さんに「どうぞお気になさらないで、お近くのお寺をご紹介しますから」とお声掛けしました。ご門徒さんは「福泉寺さんがよろしければ、お願いしたいです」とおっしゃいました。
「そうか、住職は、そういうことで参っておられたのか」
と思いました。訃報に心を動かしつつ、申し訳なさと有難さの中、新幹線に乗車しました。
さて今回は、103歳のお母さまの見送りです。息子さん夫婦と娘さん、3人の姉妹の6人でした。先立って行ったお父様の書かれた家系図で人間関係の「答え合わせ」をしました。100歳の天寿を全うされたということもあって、皆さんも穏やかに、丁寧に時間を過ごしておられるのが印象的でした。
2022年07月11日 07時18分
葬儀のために福岡県久留米市に向かいました。
早速余談ですが、私が福泉寺に入寺した当初、住職から「東京や山口など、いろいろなところに葬儀に行かせてもらった」という話を聞いて、
「近くの同じ宗派のお寺に頼めばいいのに。そんな遠くまで出向いて、ご門徒さんの負担を考えていらっしゃらないのか」
というのが、その時の私の感想でした。
今回の久留米市のご門徒さんは、駅家町上山守のご出身です。ご高齢のお母さまを2年前に久留米に呼んで、近くでお世話をされていました。
私はご門徒さんに「どうぞお気になさらないで、お近くのお寺をご紹介しますから」とお声掛けしました。ご門徒さんは「福泉寺さんがよろしければ、お願いしたいです」とおっしゃいました。
「そうか、住職は、そういうことで参っておられたのか」
と思いました。訃報に心を動かしつつ、申し訳なさと有難さの中、新幹線に乗車しました。
さて今回は、103歳のお母さまの見送りです。息子さん夫婦と娘さん、3人の姉妹の6人でした。先立って行ったお父様の書かれた家系図で人間関係の「答え合わせ」をしました。100歳の天寿を全うされたということもあって、皆さんも穏やかに、丁寧に時間を過ごしておられるのが印象的でした。