2025年06月08日 12時56分
お父様(おじいちゃん)の25回忌のご縁でした。
地元福山、福岡、大阪、名古屋から久々の集合。
25回忌どころか、7回忌でもなかなか集まりにくい昨今です。
ご当主と故人様のお人柄に、みんなが集まってこられたのだろうと思います。
さて、最近は黒板と使って法話をすることがありますが、説明に様な話は私自身もうやめたい、などと思いつつ皆さまの方に顔を向けると「もうそろそろ終わりませんか…?」の表情に見えて、余計に早口に。
お寺の会館で会食。
開始しばらくは、本堂でのしっとりした雰囲気を残しておられましたが、ある方がこの状況を一変させました。
「おじいちゃんの博打の話を聞きたい」
おじいちゃん夫婦は、両家とも裕福な家庭だったのが、両家ともおじいちゃんが博打で借金をこさえることになったそうです。
家も、3つあった山も全部無くなったそうです。
”当事者”のおばさんはすべてを語りませんでしたが、
山あり谷ありの人生、平坦な道などない、といったところで、
皆さんが「どんな人生になろうと、皆元気なら我々は大丈夫だよね」という思いを
お互いに確かめ合っておられるような雰囲気がありました。
ほんとうに朗らかなご家族。
何と私は、急遽お休みになられたご家族の分のお弁当を頂戴することになって、このような場に立ち合わせていただいたことです。
”人生の先輩方”に素敵なことを教わった気分です。ご両親の「相続」かたがた、またいらしてください。
2025年06月03日 12時59分
NHK『こころの時代』
大八木正雄師「異なるをみとめあう調べ」
6月7日(土)13:00~14:00(再放送)
私が大八木先生に出会ったのは、今から18年前、2007年でした。
学生であり僧侶駆け出しの私にとって、師の存在はかけがえのないものとなりました。
学校卒業後も師のところへ通い詰めました。
自坊が忙しくなって、3年ほど間をあけてしまいましたが、
師は静かに、静かに待っていてくださっていたようでした。
そういえば以前、師が、その師である水原夢江師のところに稽古に行かれていた時の話をされました。
ややこしいのですが、水原師にも、中山玄雄という天台宗の師匠がおられました。
番組で紹介されているように、大原の声明は天台宗の世界です。天台宗の“分家”である浄土真宗は、昭和8年の声明大改訂を含めて、独自の世界を作ってきました。例えば、難解な旋律の伝承は困難であり、大衆唱和(みんなでお経をあげる)に価値を置いてきました。これは天台声明との事実上の「訣別」です。
水原師は浄土真宗の僧侶です。
同宗派からは、「天台かぶれ」とみられ、天台では「真宗さんは…」とみられ、大変孤独であっただろうと思います。
その水原師が、中山玄雄師のところへ稽古に行くと、奥様がすき焼きを御支度なさる。
伝承者の少ない、絶滅しかねないこの世界の門をたたかれた水原師を、本当に温かく優しくお迎えになられたのでしょう。
時が下って2009年~。学校を卒業後も稽古に通っていたころ、夜も遅くなったときには、御自防の一室に布団を用意してくださって、師をとおして水原師、中山師の世界を味わわせていただいたような気分になって、布団の中でうれし泣きをしたこともあります。
さて、お経をあげるというのはどんな意味や価値をもたらしてくれるのでしょうか。
日々の暮らしの中でたびたび起こる、「こころのわだかまり」をテーマに、
一度番組をご覧になられたら、思います。
NHK『こころの時代』より(クリック)
住職Facebook(クリック)
住職インスタグラム(クリック)
2025年05月26日 19時06分
わが師・大八木正雄先生がTV出演されます。
(本ページ画像はすべてNHKホームページから)
NHK『こころの時代』←クリック
紹介文
「2024年11月。異なる宗派の僧侶が、明治時代に途絶えた幻の声明を唱えるため、京都大原に集結した。中心人物は、声明研究家の大八木正雄さん。1000年以上の時を超え、僧から僧へと受け継がれた声明楽譜は、全てを受け入れる森羅万象の調べ。「声明には、分断の時代を乗り越える力がある」と語る大八木さん自身、研究を通して、自我を見つめ直し、家族との静寂のときを得た半生を聞く。聞き手は宗教学者の釈徹宗さん」(NHK)
昨年2024年11月14日、京都・大原の勝林院にて『引聲阿弥陀経』(いんぜいあみだきょう)の実唱復元がなされました。
これは、1000年以上前から伝承された阿弥陀経の旋律で、100年前に伝承が途絶えたものです。
1文字につき12拍で唱えます。
(NHK番組紹介より)
法要後、師匠はNHKのディレクターさんからインタビューを受けていました。
この日の打ち上げで私は
「先生、NHKの人に何を聞かれたんですか?」
と尋ねると、驚きを思い出したように
「『皆さんが1000年前からの伝承を復元されたことは大変意義深いことだが、それが、現代の世界情勢・国内情勢の中にある私たちにとって、何をもたらすか』と聞かれた。驚きました。皆さんはどう思う?」
とおっしゃいました。
これについては番組内でも触れるかと思いますが、私も別の機会にまた触れたいと思います。
令和7年6月1日(日)
朝5時~6時
どうぞご覧ください。
2025年05月21日 22時46分
【第55回念仏奉仕団】
6月19日(木)~20日(金)
「大谷本廟」
→「西本願寺」
→「東急ホテル」
→「清掃奉仕・記念写真」
→「比叡山延暦寺・東塔、西塔」
(クリック。募集要項です)
〆切5月末
【根本中堂をこんな角度から見られるのは一生に一度あるかないかです】
【坂本から上がる予定です。琵琶湖の眺望はたまりません】
【左の碑は、崩御後に撤去されるらしく、プレミアだそうです】
【比叡山会館はあたらしくなり、食事も絶品。こんなにおいしい精進量料理はなかなかありません】
とても品のない話で申し訳ないですが、
参拝旅費が46,000円なのですが、一人でも多くお参りしていただきたいということで、38,000円でご案内しています。
5月末までご連絡をお待ちいたします。
一生に一度のご縁を、こころより楽しみにしております。
2025年05月21日 18時49分
(去年の様子)
グランドピアノを本堂にお迎えして2年。
きっかけは…
広島で声楽を教えるある先生がご高齢に伴い、50年愛用したピアノを手放すことに。
それを知ったある調律師の方が、ご自身の工房にて一時お預かりをすることに。
それを知ったピアノ演奏家の方が、私に声をかけてくださることに。
もともと、このピアノ演奏家の方は広島在住で、私とは接点はありませんでした。
それが15年前、とある旅行で知り合ったのでした。
その橋渡しをしてくださったのは「親鸞さま」でした。
ですから、このピアノは親鸞さまが運んでくださったピアノです。
(運送業者の方々、ありがとうございました)
ということで、
第2回ちいさなおんがくかい
開催です。
もともとお経や楽器演奏がある本堂は、音響に最適な設計です。
どうぞ憩いのひと時をお過ごしください。
2025年05月14日 22時26分
祖父江省念師
1905年(明治38年)9月18日岐阜県生まれ。幼くして寺の小僧となり、まもなく節談説教僧としての修業を積む。その鍛え上げた声と絶妙の間、独特の節回しで親鸞聖人の一代記などを語り、説教の会はどこも満堂の賑わいとなる。自坊・有隣寺をはじめ全国各地で開かれた説教は最盛期に年間400回を数えた。俳優の小沢昭一氏や永六輔氏らもその説教に感銘を受け節談説教の魅力を広く世の中に伝えると、昭和40年代には「節談説教ブーム」が起きたほどであった。(有隣寺HPより)
有隣寺さんのHPには省念師の音声が残っているそうです。(クリック)
さて、「住職さん、この言葉の意味が分からないのですが…」といわれることも、「たしかにそうですね!」という言葉も伺いませんので、きっと皆さまの頭の上を晩春の風と共に吹き抜けてゆくのだろうと思います…。
入院や介護で、誰かの世話にならなければならなくなった時「誰の役にも立てなくて、迷惑ばかりかけて、生きているのがつらい」とおっしゃる方がいました。
その人はその時、多分「そんなことないですよ。生きていればきっと誰かの役に立っているはず」と言ってほしかったのだろうと思いました。なので、その通りに申し上げました。
同時に私の心の中
「この方自身が、若く元気に働けていた時、入院や介護(もっと言えば、障がい者やLGBTQなどへの社会的支援)の必要な人を『負担だけかかる役に立たない人たちだ』という価値観で見てきたということになるのではないか」とささやきが聞こえてきました。
役に立つ…私にとっては厄介な価値観です。
実はその考え方が、自分の価値観を浅く狭いものにし、人への無理解を生じ、結局は自分を苦しめ、人も苦しめると思うからです。
「人のために生きる」
「人の役に立つように生きる」。
似ているようで、全く違いますね。
ね?
2025年05月06日 22時18分
川面に映る曇天と、一本の木を撮りたい。
すると、橋の端からダッシュする次女。
何のために?それは、走りたいから。
この後の予定など、見通しも立てることなく、ただ一生懸命に。
このあと走り足りない娘にせがまれて、3kmほどジョギング。
あたりが暗くなり始めたころ、帰り道の誘導を娘にまかせた。
すると、同じところをぐるぐる回り始める。
ふざけているのかと思ったら、本気で迷っていたようだ。
二人で、おなかがよじれるほど笑った。
私は、川面に映る曇天と、一本の木を撮りたかっただけだったのに、
結局息を切らせて帰宅。
こんな娘たちの「介入」を、この年になってようやく受け入れられるようになった。
さて、『仏説阿弥陀経』上段に、「羅睺羅(らごら)」という人物の名前が登場する。
羅睺羅はお釈迦様の実子。
羅睺羅はインド語で「ラーフラ」といい、「障り」「束縛者」という意味がある。
実子誕生の際お釈迦さまは「ラーフラが生まれた」。
これには「出家して修行をする妨げ」という意味があるとされてきた。
そのままラーフラと命名、父もそれを受け入れた。
いや、父にとっては言い国の王子が出家を断念してくれるだろうと、
受け入れどころか「歓迎」したのだろう。
さて結局、『仏説阿弥陀経』に羅睺羅の名があるということは、
その後の想像に難くないのだが、
私もこうして子を授かると、ときどき考える「ラーフラ」。
本当に、そう解釈していいのだろうか…。
確かにそれはあると思う。
なぜなら、子どもがいるために出来ないことはたくさんあるからだ。
けど、
自分のしたいことに対する妨げの「ラーフラ」ではなく、
我が命に代えても子を守りたいという、いくら修行をしてもコントロールしがたい情念の「ラーフラ」のような気がする。
私のひとりぼっちの人生に、子どもが「介入」してきました。
これでよかった、と言える人生を歩みたい。
おしらせ===================
=======================
Facebookはじめました
インスタグラムもはじめました。
=======================
2024年04月01日 04時26分
新学期が始まります。
3/31も4/1も、同じ一日ですが、こうして「節目」を作ることで、初心を思い出し、心機を一転する意味では、先人の知恵のありがたさを感じます。
ただし、『進むべき方向が誤っていなければ』、の話ですが…
仏教は「私が仏に成る」ことを目標にしています。
仏は「慈悲」と「智慧」の完成者です。
「慈悲」は「人を泣かさない生き方」です。
「智慧」は「見返りを求めない生き方」です。
仏教は「この2つこそ、命あるものにとって最も尊ばれれる生き方」と定めています。
「○○になりたい」「○○を実現したい」「○○を手に入れたい」と思った時に、お釈迦さまが
「それ、いいね。頑張ってね。そのときに、ちょっとこのことも思い出してみてね」
と、肩を叩いてくださっている、と感じてみてください。
(ちなみに、心の真ん中に置いているものを、宗教の世界では『本尊』といいます。「お金教」「自分教」…いろんな宗教がありそうです)
2024年03月25日 04時40分
私たちは「お布施」と聞くと、反射的に「金品」を連想します。
間違いではないけれど、本来の意味はもっと広範に及びます。
例えば
表情で相手を和ませる「顔のお布施」
荷物を取ってあげる「身体のお布施」
相手ファーストの声掛けとしての「ことばのお布施」…
ほかにも
順番や席を譲るお布施、雨宿りに軒先を提供するお布施なんかもあります。
詳しくはこちら(天台宗HP)
お布施は別名「喜捨(きしゃ)」とも言います。
この言葉は、私には大変重いです。
何を「喜んで捨てる」のか。それは「『私がしてやったのだ』という思い」です。
「いいことしたな」という感情です。無理でしょ。
たとえば、運転中に道を譲ったときに、相手がお礼の仕草や
ハザードランプの点滅がなければ
「なんだ、道を譲ったのに無礼な」
となることがあります(私は)。
これは、喜捨、つまり施していない、という具合です。
なぜそうなってしまうのかというと、
(私たちの作り上げてきた)この世界が「ギブ&テイク」で成り立っているからです。
「施したのだ」という思いから離れなさいね。
これがお釈迦様の説かれた「布施」です。
ギブ&テイクを最も象徴しているのが経済活動です。
なので、ギブ&テイクでなければ、この世界を生きていくことはできません、
しかしながら
ギブ&テイクだけでは、仏さまの説く「ほんとうのしあわせ」は
永久に理解できないかもしれません。
この世界は、ときどき「ギブ&ギブ」があるから、面白いのだと思います。
(私の立場でお布施について説明すると、いつも気持ちが落ち着きませんけど、原語にはそういう意味がある、程度にとどめていただければ幸いです。)
2024年03月18日 05時06分
「尊いものを、尊いと思えるその心が、尊い」
数年前に出会った言葉です。
もう少し古文調だったと思い、調べましたが、忘れました。
仏さまは尊くない!という人はほとんどいないと思いますが、
では、尊いので毎朝、心を込めて手を合わせます、とはならないですね。
写真の方は、数年前にご主人を送ってから、ときどきこうして親鸞さまのお花をお供えして、ろうそくに火を灯し、ねんごろに合掌して帰られます。境内にご主人のお墓があるので、「ついで」かもしれませんが、どちらでもいいです。
「ときどき」と聞くと、たいていは「気分次第」「ゆとりのあるときだけ」と思われるかもしれませんが、
その方の身体の具合などを知っているので、そんな風には微塵も思いません。
私は本堂の縁側から、特に声がけすることもなく、その方が手を合わせるタイミングに合わせ、座って待っていましたが、冒頭の言葉を思い出して目頭が熱くなってしました。
(いま記事を書いていて気がついたのですが、核家族・親と同居しない、ということの弊害は、これだったのですね。「仏壇があるから、おっけー。」は間違いなわけです。さりとて今更同居は勧めませんし、私のように親を送った人ならば、せめて「一生懸命生きた姿」を思い出す、ということが大切なように感じました。)
2024年03月11日 21時41分
声明(しょうみょう)の稽古をしています。
簡単に言うと、「仏さまのメロディー」です。
先日、NHK『新日本紀行』(←クリック)が放送されまして、42年前の放映の後、10分ほど師匠ら「大原魚山塾」の取り組みが取り上げられました。正月明け早々、一人興奮しておりました。
塾名は、中国の山東省にある「魚山」で声明が盛んにおこなわれたことと、日本声明の聖地「大原」にちなみます。
また、高野山(真言系)の声明は「怒りの声明」、一方比叡山(天台系)は「泣きの声明」と、それぞれの唱法の特徴から呼ばれているそうです。
上の写真は、「ユリ」という旋律を「唄(ばい)」「散華(さんげ)」「伽陀(かだ)」というそれぞれの曲によって、微妙にゆれ方が異なることを表したものです。
西本願寺は昭和8年に、儀礼の大改訂が行われ、専門的な唱法の伝承は途絶え、誰もがやさしく唱えられる「大衆唱和」に移行したそうです。それには「儀礼の厳粛さや玄妙さの損失」と「法話による布教・伝道」への舵切りも伴い、僧侶間でもますます「マニアック」な世界になってしまいました。(結果、「儀礼軽視」「法話を聞いて”理解”しても、心がついていけない」現在に至る、というのは私の推論ですが、おそらく間違いないことと思われます)
時々、ご法事でこの声明を唱えます。20年かけてやっと1年生を卒業できるかどうか、と言われます。皆さん、どうか長生きしてください。
2024年03月04日 05時10分
↑先年8/2に往生しました前々坊守・児玉直子おばあちゃんは、本当に手先の器用な人で、いろいろな作品を残しました。その中の一つ、「千代紙のお雛様」です。よくみると顔がありません。しかし不思議なことに、表情が豊かなのです。
私の郷にいた画家の原田泰司(←クリック)を想起します。
「のっぺらぼうだ。へんなの…」と言った娘にも、この人形の表情がありありと感じられる日がやってくるのを楽しみに待っています。
↑今年中学生になる長女の初節句に、先年9/24に亡くなった前住職・児玉雄嗣父から送られたお雛様です。
「そんなに高いのか!」
子どものいない父に、初孫の節句の話をするのはいささか気が引けました。
忙しさにかまけて、出したり出さなかったり…これからは毎年出します。
節句…文字通り竹の節のように、人生における節々(アクセント)を付けて、強く真っすぐに育ってもらいたいです。
ご門徒さんの雛飾りです。
…というか、床の間の掛け軸に目が止まりました。
「念念称名常懺悔(ねんねんしょうみょうじょうさんげ)」。
中国唐代の善導大師の『般舟讃(はんじゅさん)』です。
あえて自己反省などせずとも、ナンマンダブの徳により、お念仏称える中に懴悔と滅罪の徳がそなわる、という意味です。
ナンマンダブを称える時くらいは、自分の心に素直でありたいです。
2024年03月03日 12時23分
(御当家の猫もお参り…)
これからお勤めしようというときに、窓の外に猫がスッと座ったので、笑いました。
「『人間の動物園』を観に来てるんです」
と娘さん。
この視点は面白いです。
ほんと、どっちが「自由」を手に入れているかわかりません。
しかし、この「自由」を、「ほんとうの自由」としたら?
私たちは、お金や健康や友達で、自由な気分を得ます。
そのことについて「黒白二鼠のたとえ」(←クリック)」に触れました。
私は何者?というか、この世界を生きている「私」の状況をお釈迦さまがたとえておられます。
2024年02月28日 20時23分
昨年は、前々坊守(8/2)前住職(9/24)を送りまして、寺がバタバタしました。
それに引きつづいて、私の実家の母が11/22に亡くなりました。70歳でした。
詳細は別の機会に譲りますが、最近、感じていることを綴ります。
私たちにとって「グッド」は、病気が治ること、商売が繁盛すること、仲の良い人に恵まれること、でありましょう。であるから、その反対である「バッド」が、病気になること、負債を抱えること、仲たがいすることになるでしょう。そして、最大の「バッド」つまり不幸は死である、と。
であるなら、この価値観で生きていく間は、私たちは皆「バッドエンド」の人生です。
「そうさせません」これが仏さまの叫びでしょうか。
ここに「浄土真宗」「お念仏の教え」があるのでしょう。
上の写真は、唐代中国の敦煌にある「莫高窟(ばっこうくつ)五十七窟壁画」の観音菩薩さまです。
観音菩薩さまは「観世音」つまり、世の人々の悲痛の叫びを受け入れてくださる菩薩さまです。
慈悲のシンボルとして阿弥陀さまの脇侍に住しておられます。
このお顔をご覧ください。
「お前、いろいろ間違っとるぞ。自業自得じゃ。お念仏の何たるかを全く理解していない。もう一度仏教の勉強をやり直せよ。」
「この世界はしんどいことだらけね。私もその苦しみ、経験しました。結局すべて、自分で選んだ道なのよね?いいじゃない、それで。大丈夫。阿弥陀さまに必ずさとりを開かせてもらうんだから、もう少しの辛抱よ。さあ、笑って」
さて、皆さんはどんな声が聞こえてきたでしょうか?
2023年10月22日 08時27分
およそすべての争いは、相手への「無理解」から起こります。
子どもが集まると、つかの間の平安を覚えますが、しかし、子ども同士も喧嘩をします。
喧嘩をしながら、相手への「理解」を身に着けていってほしいと願います。
その背景(包み込んでいる世界)が、お寺・仏さまであることが、いい。
葬式と法事の場としてのお寺の姿は、全体の1割です(体感)。
その他はほとんど、「公園」と同様の機能です。
公園のようだけれど、その陰にひっそりと「教え」がある。
それは、自分自身への理解、そして相手への理解をうながす、「仏智(仏さま目線のものの見方)」です。
是非、浸ってみてください。
2023年10月21日 08時29分
(母の住んでいる近くの公園。都会にこんな素晴らしい公園がありました)
これからの時代、「公園」こそ地域・まちづくりのキーワードになると確信しています。
公園は、子どもだけの遊び場ではありません。
大人も遊ぶのです。
ジャングルジムや鬼ごっこの事ではなくて、読書や会話、またはコーヒーを飲みながらボーっとする、散歩するなど…。
仕事や家事だけでは、心も体も持ちません。だから、車のハンドルのように「遊び」が必要です。
さて、みーんなの公園プロジェクト(クリック)というものがあります。
私が公園に馳せる思いはもちろん、それ以上の情報が詰まっていて、大変魅力的なサイトです。その中で「インクルーシブな地域社会」という言葉がありました。
「包括的な」という意味です。あらゆるものを受け入れていく。似たような言葉に「バリアフリー」がありますが、こちらは障がい者や高齢者が対象であるイメージが強いです。
わが地域に、公園が欲しいです。
2023年10月20日 08時28分
(法事で「いろんな宗派があるね」という会話から、ゴールはどこや?!となりまして…)
仏教のゴールは「成仏」です。
仏に成ることです。
仏とはどんな存在か。
それは「慈悲」と「智慧」をコンプリートした姿です。
「慈悲」は「相手を泣かさない生き方」です。
「智慧」は「見返りを求めない生き方」です。
そして、こういった上で、改めて仏さまに合掌礼拝するということは、
「『相手を泣かさない生き方』『見返りを求めない生き方』こそ、『命あるものにとって最も尊ばれる生き方』であることを、自分の生きる根本に置く」
ということです。これが「本尊に手を合わせる」という姿です。
自分が欲しているもの(経済・健康・家族友人)を提供してもらうように手を合わせるのは枝葉末節の部分です。
ときどきは、自分が求めているものではなく、仏さまが与えようとされておられるものを訪ねてみてはいかがでしょうか。
2023年10月19日 23時54分
「浄土」は「ピュア・ランド」と英訳されます。
このように他国の言葉で翻訳すると、意味がわかりやすいことがあります。
ピュアとは「純粋な・混じりけの無い」です。
混じりけとは「私の欲・煩悩」です。
煩悩とは「自分中心のものの見方」です。
よって、浄土とは「相手も自分も認め合う世界、好き嫌いや価値基準によって行動や判断が左右されない、もっとも素直に生きれられる世界」と表現されます。
ある法事でピュアランドの説明をした時、「行ってみたい…」とつぶやく若い方がいらっしゃいました。
その感覚を「欣求浄土、厭離穢土(ごんぐじょうど、えんりえど)」といいます。
「浄土(純粋な世界)をあこがれ、穢土(この濁りきった世界)を厭い離れんとする」心です。
絶え間ない戦争、経済活動中心の価値観、コロナ、教育格差、虐待、ハラスメント、…このように「濁り」を挙げればきりがありません。
以前、「宗教がおこる3要素」として、「貧・病・争」があると教わりました。
ひとりの人の中にこの3つが揃うとき、求めるものがおこるのでしょう。
逆に、「経済的に豊かであって、若くて健康で、みんなと仲良し(と思っている)」人には縁のない世界かもしれません。
↓ちなみに、こんなイベントがあったようです。
京都・永観堂での「ピュアランド・ライツ」の様子(クリック)
2023年10月18日 23時50分
ホウキギが赤くなってきました。
「コキア」といいます。
小さな粒状の実は、「畑のキャビア」「マウンテンキャビア」の異名を持つ「とんぶり」として秋田名物になっています。
(秋田・大舘のとんぶり紹介はこちら)
この大舘の紹介ページのホウキギの写真を拝見すると、一般に見るものと比べて姿がずいぶん違っていて驚きました。おそらく、観賞用というより、栽培・収穫用に品種改良されているのだろうと思いました。
さて、お参りの方の中に、写真を撮って帰る方がときどきおられます。
境内・本堂とよく合います。理由は多分「無常観」かなと思います。
春夏秋冬の移り変わりを、人生に重ねてみてください。
2023年10月16日 23時47分
「ごうてんじょう」。一般には社寺の建築様式に見られ、天井様式にある「真・行・草」の簡略序列のうち、最も格式高い「真」にあたるものとされています。
福泉寺に入寺した2010年、私が最も虜になったのはこの格天井でした。
先月往生した前住職が、皆さまにお願いをして実現したものです。
皆様もお参りにお越しの際には、ぜひご覧いただき、その思いを共有してくださればと願っています。
2023年10月15日 23時46分
(法事の後。片づけを終えた仏間の格子窓から光が漏れていました。幻想的です)
ブッダは、目が見える(五感が冴えている)ことは迷いの種であると説きます。
これについては日常、お参り先で難聴や白内障などの「聞く」「見る」の機能が低下していく不自由さ・しんどさを皆さまから聞かせていただいているので、やはり目と耳は大切にしたいと思うのですが、ブッダの視点はもう一つ別のところにあるのです。
つまり、私たちは、「ありのまま」に「聞く」「見る」ことが出来ず、自分の勝手な解釈(認知バイアス)をかけてしまいます。そしてそのことで「善悪」「正邪」「好き嫌い」を振り分けていくのです。
「聞くんじゃなかった」「見るんじゃなかった」というのはよくあることです。
聞こえること、見えることを手放しで礼賛するのは危ない、と教えてくださいます。
ほどよい「闇」は、沈思黙考を促してくれます。
2023年10月14日 23時52分
銅製の雨どいに数か所穴が開いていて、雨がしたたっていました。
先日ご往生されました、雨どいの専門業者でもある前総代長さんが、30年前に設置してくださいました。
銅製なので、酸性雨や瓦の釉薬(ゆうやく)の影響で穴が開いています。
今回はその穴の補修を、長男さんがしてくださいました。
身の引き締まる思いです。
感謝しかありません。
2023年10月11日 16時15分
(朝日新聞朝刊10/4より)
子どもたちに作曲に指導をする記事です。
作曲家の藤倉大さん。
指導、と書きましたが、基本的に「指導しない」というスタンスだそうです。
極力助言を控え、また現場では音楽教師、家庭では親が口出しをすることを禁じるように発信しているそうです。
アメリカ航空宇宙局(NASA)が「創造的な問題解決能力」のテストをしたところ、4~5歳の98%が「天才」に分類された、とありました。これが5年後には30%、10年後には12%になり、大人ではわずかに2%だったそうです。
さて、「天才とは」何ぞや、という定義については割愛しますが、仏教者の立場から類推するに、「そうだろうな」と思い当たるものがあります。
それを考察する際にキーワードになるのは、「知恵」「常識」「煩悩」です。
つまり「私たちは充実した経済活動を目指して『知恵』を身に着けるべく脳をトレーニングする。しかしそれは、『常識』という道徳・法律観に基づいた線引きが規範になっているため、この規範に倣っていく過程で独創性を手放していくのだろう。なぜ、そうしていくのかというと、前段で述べた通り、経済の充実を目標としているのであり、そのことはそのまま『煩悩』のすがたに他ならない。一方、子どもにはもともとその概念(煩悩・欲)がないため、自由闊達な発想をもって存在することが出来る」と言えそうです。
言うまでもなく、経済の発展を否定しているのではありません。
ただ、「常識や知恵を身につけること」を手放しで礼賛することを、仏教は警鐘を鳴らしているのです。もっと言えば、そのような人間の姿をご覧になった仏さまのお心を「悲」とあらわしているのです。
この世界で生きていくために、いったん仏さまの世界とは180度逆のベクトルへ進む。その後、進む方角に疑問を抱き(常識を疑い)、一度引いた線が揺らぐ。仏教の面白さはここから始まるのです。
2023年10月10日 13時29分
(朝日新聞10/8朝刊1面)
10/7、たまたまテレビをつけたら「長崎くんち」を生中継していました。気が付けば、家族で釘付けになって観ていました。
「長崎くんち」は1634(寛永11)年に始まった祭りで、1979(昭和54)年に国の重要無形民俗文化財に指定されています。
規模の大きな祭りで変遷が多彩。ウィキペディアでも膨大な情報量です。
(詳しくはこちらクリック。)
祭りの根源は「楽しさ」です。天岩戸を、閉じこもった天照大神自らをもって開けしめたのは、戸の外から聞こえてくる楽しい声、囃子です。
楽しくなければ、本来祭りとして成立していません。また、楽しくないから、全国各地の小地域(町内・組内)の祭りの存続が危ぶまれている、本末転倒な状態が現状である地域が散見されます。
どうすれば楽しくなれるのでしょう。
多分(間違いなく)、祭り以外の日頃の関係性です。
この関係性を担保するのに、地域の寺が「役に立っていく」のが望ましいかもしれません。つまり、間接的に寺も祭りに関わります。
明治以降、寺と神社は、宗教の違いを理由に分断をしてきました。
これからは、もっと「先進的な」関係性を持っていく事が、共存共栄を目指すときに必要であるように思われます。
2023年10月09日 13時28分
「けつじょうのしん」
と読みます。
阿弥陀さまのお心を、素直に受け入れることができていること(状態)を指します。
言い換えれば、「疑いのない」姿です。これと似ている表現で、「疑わない」となると、これは「状態」ではなく「行為」になり、そこに自分の心の作用が加わるので、疑いのこころがどうしても残ってしまいます。これらを「無疑」と「不疑」に使い分けます。注意が必要。
「この言葉とは切っても切れないなぁ」
1人のご門徒さんが言いました。
あらゆる場面で「けつじょうのしん」という言葉に縁があるようです。そのたびに、味わいが変わっていくと思います。
今朝は、そのことに加えて「信心歓喜(しんじんかんぎ)」という浄土真宗で大切にしている言葉も出てきました。これも浄土真宗では大切な言葉で、「阿弥陀さまのお心を受け取ったら、よろこびが湧いてくる」というものです。
もう一人のご門徒さんが
「よろこんでいるのは阿弥陀さんよね」
と言っていました。
ご門徒さんたちとそんな会話に自然になり、朝から幸せです。
こんな話を朝からしているお寺は、福山ではこの寺くらいと思われます。
2023年10月08日 13時27分
先日、お母さまの33回忌の法事を本堂で勤めました。
読経の前に、お参りなされた80代のご夫婦に以下の事を訊きました。
「お母さまの法名をそらで(何も見ずに)言えますか?」
答えはNO。おそらく多くの方が、ご家族の法名についてこのような認識を持たれているのではないかと思います。
そこで、以下の事をお伝えしました。
①法名は経典や教えに関する書物から引用して作られていること
②一字ごとに、意味があること
③その意味とは、「この世界で生きる私たちが、苦悩(生きづらさ)から解放される答えなりヒントなりが込められている」もの
要するに、重要なのは③です。2500年前に説かれたもの(答え)とは、今も昔も生きづらい私たちの様々な価値観に対しての、「こう捉えたら少し(もっと)ラクになるよ」という投げかけです。
換言すれば、「今の貴方の、そういう価値観だから、しんどいのです」ということです。
今日のご夫婦、特にご主人は
「法名には何かしら意味があるのだろうが、今日それを初めて聞いた」
とおっしゃっていました。
住職としてせねばならぬことがまだまだありそうです。
2023年10月07日 19時26分
タイトルは「こうせんそ ほっちゅうかい」とよみます。
簡単に言い換えて「近所の同じ宗派グループのお寺さん会議」です。
今回は主に「今月の子供会@金蔵坊」と「来年6月に門徒の皆さまと京都参拝」についてでした。
皆さまにとっては「自分のお寺」に関心があるところでしょうが、実はグループをあげて「スクラム」を組んでいる世界もあるのです。
2023年10月06日 15時48分
9/23。お彼岸法要のために「ウエルカムボード」を用意。
小2の長男に「書いてみて」と頼む。
文言は二人で相談して「おかえり」に決定。
9/24。前住職往生。深夜に病院から帰ってきた前住をストレッチャーに移して山門をくぐる。このとき、このボードが目に留まり、「何とも言えない気分」になる。
今回は、この「何とも言えない気分」について書こうと思います。
葬祭会館の方や、葬儀に関わる業者さんが時々「故人さまがお浄土に帰られました。皆さま、ご一緒に、合掌。」とアナウンスします。
この「帰る」というのは、あくまでも「仏さまの側がからの声掛け」です。なぜなら、私たちは浄土に一度も行ったことがないからと考えるからです。したがって、業者さんの声掛けは、そのまま仏さまの声掛けであり、言い換えれば、私たちは「帰る場所のあること」を確かに聞かせていただかなければならないのです。(それを「お聴聞」といいます)
このことから、ウエルカムボードを見て感じた「何とも言えない気分」とは、デジャヴや運命、預言といったことに自分が関わったかもしれない心境、あるいは、気安く縁起でもないことを書くべきではないといった後悔のような類のものではなく、
「いつ、何が起きてもおかしくない状況を1年以上頑張った前住と、そばで看病に明け暮れた前坊守への苦労を、息子の字を通して仏さまのねぎらう心が届けられているのだ」という感情なのです。
そう、仏さまが「命のよりどころ」となってくださっていたのです。