2025年12月21日 21時31分
中学生の娘さんが法事の法話後に
「オテントサマって何ですか」
と質問してきました。
私が使ったその単語の意味を伝えると
「月にウサギが住んでいることは聞いたことがあるけれど、太陽にも何かいるのですか?」
と返されました。
母親が
「アンタそんなことも知らないの」
と嘲笑気味。
私は「教わる機会がなかったのか…でもあなたが嘲る?!」
と複雑な気分。
仏さまになられた故人は、私たちを見守ってくれていると聞きます。
そのまなざしは、「憐愍(れんみん)」とあります。
あわれみの瞳です。
真実がわからない。
ありのままに受け止められない。
いつも煩悩が邪魔をする。
そうとも知らず、私たちは自分の都合で拝む。
オテントサマが見ています。
2025年12月09日 02時54分
報恩講の様子をアップロードいたしました
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さて、今回は
1日目「おてらうんじ」
2日目「ひとり芝居」「法話」
3日目「真宗教養講座」
でスタートを切りました。
朝から楽しそう!!
大根なます100人分!!
手作りかりんとう100人分
食べ始めたら、とまらない!!
お寺×音楽×ドリンク=おてらうんじ
今回3回目。
腕組み足組みしかめっ面のご年配御同行が、懐かしの曲でスイングしている…
演者の福澤夫妻のご子息が、ピアノ飛び込み参加。
一番驚いたのはご両親。
昨年飛び込み参加の男の子に触発されたかもしれません。
本堂に暗幕!!
物語に一気に吸い込まれる…
ひとり芝居『愛しの娘みすゞ』。
演者は横浜のなごみ庵坊守様・浦上智照さん。
たくさんの舞台装置とともに、ご住職の浦上哲也さんとお越しくださいました。
照明や音響など、たくさんのことを学ばせていただきました。
立ち見の方もあり、85人がぎっしり。多分、ここ30年で新記録。
こんなにたくさん人がいるのに、信じられないほどの静寂。
一気に引き込まれ、男女の別なく目頭を押さえる姿。
先立って行った母親(みすゞ)からの愛情を感じないという8歳の孫に
みすゞの育児メモ(詩)を読みながら「我が子が愛しくない母親がこんなメモを残すか」
と涙ながらに訴える祖母のシーンは、堪えました。
…と余韻のなか、ご報告させていただきました。
おてらうんじの演者さんも、手作りかりんとうも、だいこんも、お手伝いの皆様も、
全員「別離の悲しみ、言うべからず」の世界に生きる人たちでした。
人に言えない、言葉にできない悲しみの中、何とかもがきながら光を求めている姿が
ありありと思い浮かばれ、阿弥陀さんのはたらき、親鸞聖人のご苦労がしのばれる
ひと時となりました。
改めてお礼申し上げます。
2025年11月30日 15時39分
【六字の生活】(ワタクシバージョン)
「南」なにかあれば不足ばかり 私の口からブツブツと
「無」むかし貰ったご恩すら 忘れて愚痴をブツブツと
「阿」あすあさっても 気持ちだけ
「弥」名となえるは 口先ばかり わたしは空しくブツブツと
「陀」だれに向いても カッコつけ 背中向ければブツブツと
「佛」佛に抱かれ こんな私も時々感謝のナンマンダブツ
門徒さんのリビングに貼ってあったのですが、まぶしすぎて直視できません苦笑
2025年11月23日 23時20分
PTAの活動中に「行間を読む」というフレーズを使ったやり取りをすることがあります。
メールやラインでの伝達が多いので、一言一句注意して言葉を紡がなければなりません。
よしんば「そんなつもりではなかった」としても、後の祭り。人の心は難しいものです。
さて、おまいり先でこの「バチ」に出会いました。
善き伴侶を送って26年。
私の妻は、制止がきかないほど元気ですので、配偶者を送った人の気持ちが想像できません。
したがって、この、すり減ったバチの「行間」はいずれ私か妻が経験せねばならないものとして、
いつもより3割強めにキンをたたきました。
(ここのところの行間は読み手にお任せいたします)
2025年11月17日 15時39分
【報恩講2025】
★12/6(土)17:00-19:00
『おてらうんじ』
本堂をラウンジにして、音楽とドリンクと会話を楽しんでください。
普段着で自由にご参加ください。参加費無料。
★12/7(日)
10:00 法要開始
10:30 おはなし
浦上哲也師(倶生山慈陽院なごみ庵住職)
11:00 ひとり芝居『愛しき娘みすゞ』
浦上智照師(倶生山慈陽院なごみ庵坊守)
★12/8(月)10:00-12:00
おとなのてらこや『真宗教養講座』
家の宗教は浄土真宗だけど、なにもしらない…そんなお方向けです。試験はありません。参加費無料
おせっかいと思われましょうが、皆様に、かろやかに、和やかに、しなやかに、生き切っていただきたい思いで、ご案内!
2025年11月17日 15時12分
何という名前の植物でしょう。
これがクセモノで、よく種を落とします。
草取りの友…。
さて、引き抜いてみると、まるで鏡写しのように対照的に、根が広がっています。
私たちには見えない地中にて水分養分を吸収し育ちます。
見えないところが重要なのですね。
私たちは、繁栄を求めて生きています。
子孫繁栄、経済、…
繁栄は見えるところです。
では見えない「根」の部分は、なんでしょう。
ん~っ!ネガティブ・ケイパビリティ!!
2025年06月08日 12時56分
お父様(おじいちゃん)の25回忌のご縁でした。
地元福山、福岡、大阪、名古屋から久々の集合。
25回忌どころか、7回忌でもなかなか集まりにくい昨今です。
ご当主と故人様のお人柄に、みんなが集まってこられたのだろうと思います。
さて、最近は黒板と使って法話をすることがありますが、説明に様な話は私自身もうやめたい、などと思いつつ皆さまの方に顔を向けると「もうそろそろ終わりませんか…?」の表情に見えて、余計に早口に。
お寺の会館で会食。
開始しばらくは、本堂でのしっとりした雰囲気を残しておられましたが、ある方がこの状況を一変させました。
「おじいちゃんの博打の話を聞きたい」
おじいちゃん夫婦は、両家とも裕福な家庭だったのが、両家ともおじいちゃんが博打で借金をこさえることになったそうです。
家も、3つあった山も全部無くなったそうです。
”当事者”のおばさんはすべてを語りませんでしたが、
山あり谷ありの人生、平坦な道などない、といったところで、
皆さんが「どんな人生になろうと、皆元気なら我々は大丈夫だよね」という思いを
お互いに確かめ合っておられるような雰囲気がありました。
ほんとうに朗らかなご家族。
何と私は、急遽お休みになられたご家族の分のお弁当を頂戴することになって、このような場に立ち合わせていただいたことです。
”人生の先輩方”に素敵なことを教わった気分です。ご両親の「相続」かたがた、またいらしてください。
2025年06月03日 12時59分
NHK『こころの時代』
大八木正雄師「異なるをみとめあう調べ」
6月7日(土)13:00~14:00(再放送)
私が大八木先生に出会ったのは、今から18年前、2007年でした。
学生であり僧侶駆け出しの私にとって、師の存在はかけがえのないものとなりました。
学校卒業後も師のところへ通い詰めました。
自坊が忙しくなって、3年ほど間をあけてしまいましたが、
師は静かに、静かに待っていてくださっていたようでした。
そういえば以前、師が、その師である水原夢江師のところに稽古に行かれていた時の話をされました。
ややこしいのですが、水原師にも、中山玄雄という天台宗の師匠がおられました。
番組で紹介されているように、大原の声明は天台宗の世界です。天台宗の“分家”である浄土真宗は、昭和8年の声明大改訂を含めて、独自の世界を作ってきました。例えば、難解な旋律の伝承は困難であり、大衆唱和(みんなでお経をあげる)に価値を置いてきました。これは天台声明との事実上の「訣別」です。
水原師は浄土真宗の僧侶です。
同宗派からは、「天台かぶれ」とみられ、天台では「真宗さんは…」とみられ、大変孤独であっただろうと思います。
その水原師が、中山玄雄師のところへ稽古に行くと、奥様がすき焼きを御支度なさる。
伝承者の少ない、絶滅しかねないこの世界の門をたたかれた水原師を、本当に温かく優しくお迎えになられたのでしょう。
時が下って2009年~。学校を卒業後も稽古に通っていたころ、夜も遅くなったときには、御自防の一室に布団を用意してくださって、師をとおして水原師、中山師の世界を味わわせていただいたような気分になって、布団の中でうれし泣きをしたこともあります。
さて、お経をあげるというのはどんな意味や価値をもたらしてくれるのでしょうか。
日々の暮らしの中でたびたび起こる、「こころのわだかまり」をテーマに、
一度番組をご覧になられたら、思います。
NHK『こころの時代』より(クリック)
住職Facebook(クリック)
住職インスタグラム(クリック)
2025年05月26日 19時06分
わが師・大八木正雄先生がTV出演されます。
(本ページ画像はすべてNHKホームページから)
NHK『こころの時代』←クリック
紹介文
「2024年11月。異なる宗派の僧侶が、明治時代に途絶えた幻の声明を唱えるため、京都大原に集結した。中心人物は、声明研究家の大八木正雄さん。1000年以上の時を超え、僧から僧へと受け継がれた声明楽譜は、全てを受け入れる森羅万象の調べ。「声明には、分断の時代を乗り越える力がある」と語る大八木さん自身、研究を通して、自我を見つめ直し、家族との静寂のときを得た半生を聞く。聞き手は宗教学者の釈徹宗さん」(NHK)
昨年2024年11月14日、京都・大原の勝林院にて『引聲阿弥陀経』(いんぜいあみだきょう)の実唱復元がなされました。
これは、1000年以上前から伝承された阿弥陀経の旋律で、100年前に伝承が途絶えたものです。
1文字につき12拍で唱えます。
(NHK番組紹介より)
法要後、師匠はNHKのディレクターさんからインタビューを受けていました。
この日の打ち上げで私は
「先生、NHKの人に何を聞かれたんですか?」
と尋ねると、驚きを思い出したように
「『皆さんが1000年前からの伝承を復元されたことは大変意義深いことだが、それが、現代の世界情勢・国内情勢の中にある私たちにとって、何をもたらすか』と聞かれた。驚きました。皆さんはどう思う?」
とおっしゃいました。
これについては番組内でも触れるかと思いますが、私も別の機会にまた触れたいと思います。
令和7年6月1日(日)
朝5時~6時
どうぞご覧ください。
2025年05月21日 22時46分
【第55回念仏奉仕団】
6月19日(木)~20日(金)
「大谷本廟」
→「西本願寺」
→「東急ホテル」
→「清掃奉仕・記念写真」
→「比叡山延暦寺・東塔、西塔」
(クリック。募集要項です)
〆切5月末
【根本中堂をこんな角度から見られるのは一生に一度あるかないかです】
【坂本から上がる予定です。琵琶湖の眺望はたまりません】
【左の碑は、崩御後に撤去されるらしく、プレミアだそうです】
【比叡山会館はあたらしくなり、食事も絶品。こんなにおいしい精進量料理はなかなかありません】
とても品のない話で申し訳ないですが、
参拝旅費が46,000円なのですが、一人でも多くお参りしていただきたいということで、38,000円でご案内しています。
5月末までご連絡をお待ちいたします。
一生に一度のご縁を、こころより楽しみにしております。
2025年05月21日 18時49分
(去年の様子)
グランドピアノを本堂にお迎えして2年。
きっかけは…
広島で声楽を教えるある先生がご高齢に伴い、50年愛用したピアノを手放すことに。
それを知ったある調律師の方が、ご自身の工房にて一時お預かりをすることに。
それを知ったピアノ演奏家の方が、私に声をかけてくださることに。
もともと、このピアノ演奏家の方は広島在住で、私とは接点はありませんでした。
それが15年前、とある旅行で知り合ったのでした。
その橋渡しをしてくださったのは「親鸞さま」でした。
ですから、このピアノは親鸞さまが運んでくださったピアノです。
(運送業者の方々、ありがとうございました)
ということで、
第2回ちいさなおんがくかい
開催です。
もともとお経や楽器演奏がある本堂は、音響に最適な設計です。
どうぞ憩いのひと時をお過ごしください。
2025年05月14日 22時26分
祖父江省念師
1905年(明治38年)9月18日岐阜県生まれ。幼くして寺の小僧となり、まもなく節談説教僧としての修業を積む。その鍛え上げた声と絶妙の間、独特の節回しで親鸞聖人の一代記などを語り、説教の会はどこも満堂の賑わいとなる。自坊・有隣寺をはじめ全国各地で開かれた説教は最盛期に年間400回を数えた。俳優の小沢昭一氏や永六輔氏らもその説教に感銘を受け節談説教の魅力を広く世の中に伝えると、昭和40年代には「節談説教ブーム」が起きたほどであった。(有隣寺HPより)
有隣寺さんのHPには省念師の音声が残っているそうです。(クリック)
さて、「住職さん、この言葉の意味が分からないのですが…」といわれることも、「たしかにそうですね!」という言葉も伺いませんので、きっと皆さまの頭の上を晩春の風と共に吹き抜けてゆくのだろうと思います…。
入院や介護で、誰かの世話にならなければならなくなった時「誰の役にも立てなくて、迷惑ばかりかけて、生きているのがつらい」とおっしゃる方がいました。
その人はその時、多分「そんなことないですよ。生きていればきっと誰かの役に立っているはず」と言ってほしかったのだろうと思いました。なので、その通りに申し上げました。
同時に私の心の中
「この方自身が、若く元気に働けていた時、入院や介護(もっと言えば、障がい者やLGBTQなどへの社会的支援)の必要な人を『負担だけかかる役に立たない人たちだ』という価値観で見てきたということになるのではないか」とささやきが聞こえてきました。
役に立つ…私にとっては厄介な価値観です。
実はその考え方が、自分の価値観を浅く狭いものにし、人への無理解を生じ、結局は自分を苦しめ、人も苦しめると思うからです。
「人のために生きる」
「人の役に立つように生きる」。
似ているようで、全く違いますね。
ね?
2025年05月06日 22時18分
川面に映る曇天と、一本の木を撮りたい。
すると、橋の端からダッシュする次女。
何のために?それは、走りたいから。
この後の予定など、見通しも立てることなく、ただ一生懸命に。
このあと走り足りない娘にせがまれて、3kmほどジョギング。
あたりが暗くなり始めたころ、帰り道の誘導を娘にまかせた。
すると、同じところをぐるぐる回り始める。
ふざけているのかと思ったら、本気で迷っていたようだ。
二人で、おなかがよじれるほど笑った。
私は、川面に映る曇天と、一本の木を撮りたかっただけだったのに、
結局息を切らせて帰宅。
こんな娘たちの「介入」を、この年になってようやく受け入れられるようになった。
さて、『仏説阿弥陀経』上段に、「羅睺羅(らごら)」という人物の名前が登場する。
羅睺羅はお釈迦様の実子。
羅睺羅はインド語で「ラーフラ」といい、「障り」「束縛者」という意味がある。
実子誕生の際お釈迦さまは「ラーフラが生まれた」。
これには「出家して修行をする妨げ」という意味があるとされてきた。
そのままラーフラと命名、父もそれを受け入れた。
いや、父にとっては言い国の王子が出家を断念してくれるだろうと、
受け入れどころか「歓迎」したのだろう。
さて結局、『仏説阿弥陀経』に羅睺羅の名があるということは、
その後の想像に難くないのだが、
私もこうして子を授かると、ときどき考える「ラーフラ」。
本当に、そう解釈していいのだろうか…。
確かにそれはあると思う。
なぜなら、子どもがいるために出来ないことはたくさんあるからだ。
けど、
自分のしたいことに対する妨げの「ラーフラ」ではなく、
我が命に代えても子を守りたいという、いくら修行をしてもコントロールしがたい情念の「ラーフラ」のような気がする。
私のひとりぼっちの人生に、子どもが「介入」してきました。
これでよかった、と言える人生を歩みたい。
おしらせ===================
=======================
Facebookはじめました
インスタグラムもはじめました。
=======================
2024年04月01日 04時26分
新学期が始まります。
3/31も4/1も、同じ一日ですが、こうして「節目」を作ることで、初心を思い出し、心機を一転する意味では、先人の知恵のありがたさを感じます。
ただし、『進むべき方向が誤っていなければ』、の話ですが…
仏教は「私が仏に成る」ことを目標にしています。
仏は「慈悲」と「智慧」の完成者です。
「慈悲」は「人を泣かさない生き方」です。
「智慧」は「見返りを求めない生き方」です。
仏教は「この2つこそ、命あるものにとって最も尊ばれれる生き方」と定めています。
「○○になりたい」「○○を実現したい」「○○を手に入れたい」と思った時に、お釈迦さまが
「それ、いいね。頑張ってね。そのときに、ちょっとこのことも思い出してみてね」
と、肩を叩いてくださっている、と感じてみてください。
(ちなみに、心の真ん中に置いているものを、宗教の世界では『本尊』といいます。「お金教」「自分教」…いろんな宗教がありそうです)
2024年03月25日 04時40分
私たちは「お布施」と聞くと、反射的に「金品」を連想します。
間違いではないけれど、本来の意味はもっと広範に及びます。
例えば
表情で相手を和ませる「顔のお布施」
荷物を取ってあげる「身体のお布施」
相手ファーストの声掛けとしての「ことばのお布施」…
ほかにも
順番や席を譲るお布施、雨宿りに軒先を提供するお布施なんかもあります。
詳しくはこちら(天台宗HP)
お布施は別名「喜捨(きしゃ)」とも言います。
この言葉は、私には大変重いです。
何を「喜んで捨てる」のか。それは「『私がしてやったのだ』という思い」です。
「いいことしたな」という感情です。無理でしょ。
たとえば、運転中に道を譲ったときに、相手がお礼の仕草や
ハザードランプの点滅がなければ
「なんだ、道を譲ったのに無礼な」
となることがあります(私は)。
これは、喜捨、つまり施していない、という具合です。
なぜそうなってしまうのかというと、
(私たちの作り上げてきた)この世界が「ギブ&テイク」で成り立っているからです。
「施したのだ」という思いから離れなさいね。
これがお釈迦様の説かれた「布施」です。
ギブ&テイクを最も象徴しているのが経済活動です。
なので、ギブ&テイクでなければ、この世界を生きていくことはできません、
しかしながら
ギブ&テイクだけでは、仏さまの説く「ほんとうのしあわせ」は
永久に理解できないかもしれません。
この世界は、ときどき「ギブ&ギブ」があるから、面白いのだと思います。
(私の立場でお布施について説明すると、いつも気持ちが落ち着きませんけど、原語にはそういう意味がある、程度にとどめていただければ幸いです。)
2024年03月18日 05時06分
「尊いものを、尊いと思えるその心が、尊い」
数年前に出会った言葉です。
もう少し古文調だったと思い、調べましたが、忘れました。
仏さまは尊くない!という人はほとんどいないと思いますが、
では、尊いので毎朝、心を込めて手を合わせます、とはならないですね。
写真の方は、数年前にご主人を送ってから、ときどきこうして親鸞さまのお花をお供えして、ろうそくに火を灯し、ねんごろに合掌して帰られます。境内にご主人のお墓があるので、「ついで」かもしれませんが、どちらでもいいです。
「ときどき」と聞くと、たいていは「気分次第」「ゆとりのあるときだけ」と思われるかもしれませんが、
その方の身体の具合などを知っているので、そんな風には微塵も思いません。
私は本堂の縁側から、特に声がけすることもなく、その方が手を合わせるタイミングに合わせ、座って待っていましたが、冒頭の言葉を思い出して目頭が熱くなってしました。
(いま記事を書いていて気がついたのですが、核家族・親と同居しない、ということの弊害は、これだったのですね。「仏壇があるから、おっけー。」は間違いなわけです。さりとて今更同居は勧めませんし、私のように親を送った人ならば、せめて「一生懸命生きた姿」を思い出す、ということが大切なように感じました。)
2024年03月11日 21時41分
声明(しょうみょう)の稽古をしています。
簡単に言うと、「仏さまのメロディー」です。
先日、NHK『新日本紀行』(←クリック)が放送されまして、42年前の放映の後、10分ほど師匠ら「大原魚山塾」の取り組みが取り上げられました。正月明け早々、一人興奮しておりました。
塾名は、中国の山東省にある「魚山」で声明が盛んにおこなわれたことと、日本声明の聖地「大原」にちなみます。
また、高野山(真言系)の声明は「怒りの声明」、一方比叡山(天台系)は「泣きの声明」と、それぞれの唱法の特徴から呼ばれているそうです。
上の写真は、「ユリ」という旋律を「唄(ばい)」「散華(さんげ)」「伽陀(かだ)」というそれぞれの曲によって、微妙にゆれ方が異なることを表したものです。
西本願寺は昭和8年に、儀礼の大改訂が行われ、専門的な唱法の伝承は途絶え、誰もがやさしく唱えられる「大衆唱和」に移行したそうです。それには「儀礼の厳粛さや玄妙さの損失」と「法話による布教・伝道」への舵切りも伴い、僧侶間でもますます「マニアック」な世界になってしまいました。(結果、「儀礼軽視」「法話を聞いて”理解”しても、心がついていけない」現在に至る、というのは私の推論ですが、おそらく間違いないことと思われます)
時々、ご法事でこの声明を唱えます。20年かけてやっと1年生を卒業できるかどうか、と言われます。皆さん、どうか長生きしてください。
2024年03月04日 05時10分
↑先年8/2に往生しました前々坊守・児玉直子おばあちゃんは、本当に手先の器用な人で、いろいろな作品を残しました。その中の一つ、「千代紙のお雛様」です。よくみると顔がありません。しかし不思議なことに、表情が豊かなのです。
私の郷にいた画家の原田泰司(←クリック)を想起します。
「のっぺらぼうだ。へんなの…」と言った娘にも、この人形の表情がありありと感じられる日がやってくるのを楽しみに待っています。
↑今年中学生になる長女の初節句に、先年9/24に亡くなった前住職・児玉雄嗣父から送られたお雛様です。
「そんなに高いのか!」
子どものいない父に、初孫の節句の話をするのはいささか気が引けました。
忙しさにかまけて、出したり出さなかったり…これからは毎年出します。
節句…文字通り竹の節のように、人生における節々(アクセント)を付けて、強く真っすぐに育ってもらいたいです。
ご門徒さんの雛飾りです。
…というか、床の間の掛け軸に目が止まりました。
「念念称名常懺悔(ねんねんしょうみょうじょうさんげ)」。
中国唐代の善導大師の『般舟讃(はんじゅさん)』です。
あえて自己反省などせずとも、ナンマンダブの徳により、お念仏称える中に懴悔と滅罪の徳がそなわる、という意味です。
ナンマンダブを称える時くらいは、自分の心に素直でありたいです。
2024年03月03日 12時23分
(御当家の猫もお参り…)
これからお勤めしようというときに、窓の外に猫がスッと座ったので、笑いました。
「『人間の動物園』を観に来てるんです」
と娘さん。
この視点は面白いです。
ほんと、どっちが「自由」を手に入れているかわかりません。
しかし、この「自由」を、「ほんとうの自由」としたら?
私たちは、お金や健康や友達で、自由な気分を得ます。
そのことについて「黒白二鼠のたとえ」(←クリック)」に触れました。
私は何者?というか、この世界を生きている「私」の状況をお釈迦さまがたとえておられます。
2024年02月28日 20時23分
昨年は、前々坊守(8/2)前住職(9/24)を送りまして、寺がバタバタしました。
それに引きつづいて、私の実家の母が11/22に亡くなりました。70歳でした。
詳細は別の機会に譲りますが、最近、感じていることを綴ります。
私たちにとって「グッド」は、病気が治ること、商売が繁盛すること、仲の良い人に恵まれること、でありましょう。であるから、その反対である「バッド」が、病気になること、負債を抱えること、仲たがいすることになるでしょう。そして、最大の「バッド」つまり不幸は死である、と。
であるなら、この価値観で生きていく間は、私たちは皆「バッドエンド」の人生です。
「そうさせません」これが仏さまの叫びでしょうか。
ここに「浄土真宗」「お念仏の教え」があるのでしょう。
上の写真は、唐代中国の敦煌にある「莫高窟(ばっこうくつ)五十七窟壁画」の観音菩薩さまです。
観音菩薩さまは「観世音」つまり、世の人々の悲痛の叫びを受け入れてくださる菩薩さまです。
慈悲のシンボルとして阿弥陀さまの脇侍に住しておられます。
このお顔をご覧ください。
「お前、いろいろ間違っとるぞ。自業自得じゃ。お念仏の何たるかを全く理解していない。もう一度仏教の勉強をやり直せよ。」
「この世界はしんどいことだらけね。私もその苦しみ、経験しました。結局すべて、自分で選んだ道なのよね?いいじゃない、それで。大丈夫。阿弥陀さまに必ずさとりを開かせてもらうんだから、もう少しの辛抱よ。さあ、笑って」
さて、皆さんはどんな声が聞こえてきたでしょうか?
2023年10月22日 08時27分
およそすべての争いは、相手への「無理解」から起こります。
子どもが集まると、つかの間の平安を覚えますが、しかし、子ども同士も喧嘩をします。
喧嘩をしながら、相手への「理解」を身に着けていってほしいと願います。
その背景(包み込んでいる世界)が、お寺・仏さまであることが、いい。
葬式と法事の場としてのお寺の姿は、全体の1割です(体感)。
その他はほとんど、「公園」と同様の機能です。
公園のようだけれど、その陰にひっそりと「教え」がある。
それは、自分自身への理解、そして相手への理解をうながす、「仏智(仏さま目線のものの見方)」です。
是非、浸ってみてください。
2023年10月21日 08時29分
(母の住んでいる近くの公園。都会にこんな素晴らしい公園がありました)
これからの時代、「公園」こそ地域・まちづくりのキーワードになると確信しています。
公園は、子どもだけの遊び場ではありません。
大人も遊ぶのです。
ジャングルジムや鬼ごっこの事ではなくて、読書や会話、またはコーヒーを飲みながらボーっとする、散歩するなど…。
仕事や家事だけでは、心も体も持ちません。だから、車のハンドルのように「遊び」が必要です。
さて、みーんなの公園プロジェクト(クリック)というものがあります。
私が公園に馳せる思いはもちろん、それ以上の情報が詰まっていて、大変魅力的なサイトです。その中で「インクルーシブな地域社会」という言葉がありました。
「包括的な」という意味です。あらゆるものを受け入れていく。似たような言葉に「バリアフリー」がありますが、こちらは障がい者や高齢者が対象であるイメージが強いです。
わが地域に、公園が欲しいです。
2023年10月20日 08時28分
(法事で「いろんな宗派があるね」という会話から、ゴールはどこや?!となりまして…)
仏教のゴールは「成仏」です。
仏に成ることです。
仏とはどんな存在か。
それは「慈悲」と「智慧」をコンプリートした姿です。
「慈悲」は「相手を泣かさない生き方」です。
「智慧」は「見返りを求めない生き方」です。
そして、こういった上で、改めて仏さまに合掌礼拝するということは、
「『相手を泣かさない生き方』『見返りを求めない生き方』こそ、『命あるものにとって最も尊ばれる生き方』であることを、自分の生きる根本に置く」
ということです。これが「本尊に手を合わせる」という姿です。
自分が欲しているもの(経済・健康・家族友人)を提供してもらうように手を合わせるのは枝葉末節の部分です。
ときどきは、自分が求めているものではなく、仏さまが与えようとされておられるものを訪ねてみてはいかがでしょうか。
2023年10月19日 23時54分
「浄土」は「ピュア・ランド」と英訳されます。
このように他国の言葉で翻訳すると、意味がわかりやすいことがあります。
ピュアとは「純粋な・混じりけの無い」です。
混じりけとは「私の欲・煩悩」です。
煩悩とは「自分中心のものの見方」です。
よって、浄土とは「相手も自分も認め合う世界、好き嫌いや価値基準によって行動や判断が左右されない、もっとも素直に生きれられる世界」と表現されます。
ある法事でピュアランドの説明をした時、「行ってみたい…」とつぶやく若い方がいらっしゃいました。
その感覚を「欣求浄土、厭離穢土(ごんぐじょうど、えんりえど)」といいます。
「浄土(純粋な世界)をあこがれ、穢土(この濁りきった世界)を厭い離れんとする」心です。
絶え間ない戦争、経済活動中心の価値観、コロナ、教育格差、虐待、ハラスメント、…このように「濁り」を挙げればきりがありません。
以前、「宗教がおこる3要素」として、「貧・病・争」があると教わりました。
ひとりの人の中にこの3つが揃うとき、求めるものがおこるのでしょう。
逆に、「経済的に豊かであって、若くて健康で、みんなと仲良し(と思っている)」人には縁のない世界かもしれません。
↓ちなみに、こんなイベントがあったようです。
京都・永観堂での「ピュアランド・ライツ」の様子(クリック)
2023年10月18日 23時50分
ホウキギが赤くなってきました。
「コキア」といいます。
小さな粒状の実は、「畑のキャビア」「マウンテンキャビア」の異名を持つ「とんぶり」として秋田名物になっています。
(秋田・大舘のとんぶり紹介はこちら)
この大舘の紹介ページのホウキギの写真を拝見すると、一般に見るものと比べて姿がずいぶん違っていて驚きました。おそらく、観賞用というより、栽培・収穫用に品種改良されているのだろうと思いました。
さて、お参りの方の中に、写真を撮って帰る方がときどきおられます。
境内・本堂とよく合います。理由は多分「無常観」かなと思います。
春夏秋冬の移り変わりを、人生に重ねてみてください。
2023年10月16日 23時47分
「ごうてんじょう」。一般には社寺の建築様式に見られ、天井様式にある「真・行・草」の簡略序列のうち、最も格式高い「真」にあたるものとされています。
福泉寺に入寺した2010年、私が最も虜になったのはこの格天井でした。
先月往生した前住職が、皆さまにお願いをして実現したものです。
皆様もお参りにお越しの際には、ぜひご覧いただき、その思いを共有してくださればと願っています。
2023年10月15日 23時46分
(法事の後。片づけを終えた仏間の格子窓から光が漏れていました。幻想的です)
ブッダは、目が見える(五感が冴えている)ことは迷いの種であると説きます。
これについては日常、お参り先で難聴や白内障などの「聞く」「見る」の機能が低下していく不自由さ・しんどさを皆さまから聞かせていただいているので、やはり目と耳は大切にしたいと思うのですが、ブッダの視点はもう一つ別のところにあるのです。
つまり、私たちは、「ありのまま」に「聞く」「見る」ことが出来ず、自分の勝手な解釈(認知バイアス)をかけてしまいます。そしてそのことで「善悪」「正邪」「好き嫌い」を振り分けていくのです。
「聞くんじゃなかった」「見るんじゃなかった」というのはよくあることです。
聞こえること、見えることを手放しで礼賛するのは危ない、と教えてくださいます。
ほどよい「闇」は、沈思黙考を促してくれます。
2023年10月14日 23時52分
銅製の雨どいに数か所穴が開いていて、雨がしたたっていました。
先日ご往生されました、雨どいの専門業者でもある前総代長さんが、30年前に設置してくださいました。
銅製なので、酸性雨や瓦の釉薬(ゆうやく)の影響で穴が開いています。
今回はその穴の補修を、長男さんがしてくださいました。
身の引き締まる思いです。
感謝しかありません。