Scroll
福泉寺は、長い歴史を持つ真宗寺院のひとつです。
しかし、近代に入って火災に遭い、系譜をはじめとして
重要な記録・法物等を失ったことによって、
その伝承もままならぬものとして今日に至ります。
そのなかで、多少の史料を紐解きながら、
前住職までの口伝えも併せて
皆さまのご先祖様と長い歴史を歩んできた福泉寺について
「これまで」と「これから」に思いを馳せたいと思います。
もっとも古い史料では菅茶山(かんちゃざん)編纂の『福山志料(ふくやましりょう)』(一八〇九(文化六)年)に
「日明山(ひめいざん)と号す。開基了心(りょうしん)。もと伊豆の人、兒玉修理太夫政近(こだましゅりだいふまさちか)という。備後国中条に来て出家。第三世観心(かんしん)の代になって 此(ここ(下山守))に移る」
とあります。「修理太夫」というのは官職(国家公務員)です。
備後に来て後に出家をしたのには、色々な事情があったのでしょう。
いずれにしても、二十代以上に亘りそれぞれの時代の人々との交流を経て今日まで堂宇伽藍(どううがらん)を護持してきました。
また、一九二五(大正十四)年発刊の「蘆品郡志(あしなぐんし)」には
「時の住職濯征(たくしょう)が八十歳の時に隠棲し、その時建てたのが『宜山亭(ぎざんてい(宜山館))』である。後に山口出身の圓識(えんしき)上人が福泉寺に二〇年寓居し、ここで菅茶山や西山拙斎(にしやませっさい)と交流を深めた」
とあります。
(当時の武倍山(むべやま)に対し、この「宜山」という字をあて、現在も学区名で用いられています。)
近年では、
というのが、口伝えのあらましであります。
『死から始まる物語』
私たちは生きています。
そしてそれは同時に、例外なく死を迎えていくことをも意味します。
その時がいつかは分かりません。
私たちは「幸せ」を求めて生きています。
そしてそれを言い換えれば、死を遠ざけていると言えるかもしれません。
なぜなら「死」を不幸と考えているからです。
しかし、本当にそれでいいのでしょうか?
だとすれば、どんなに充実した毎日を過ごそうとも
私たちの人生の結末はいつも「不幸」のままです。
このように、死は最も避けたいテーマであると同時に
最も重要なテーマであると言えそうです。
私たちの人生の物語を不幸で終わらせない。
そんな世界があったら、思い通りにならない人生は相変わらずだけれど
葛藤の中に「安心」を抱いて生きることができそうです。
この「安心」の提供こそ、「お寺」という装置の果たす役割です。
お念仏の響く本堂。
「安心」を聞くことのできる場。
心の荷物を置いて身軽になれる。
それが福泉寺の第一義です。