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浄土真宗 福泉寺

山門の掲示板

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永眠と仏教
2023年10月02日 17時18分
「安らかにお眠りください」。 生前、病気や様々なご苦労をねぎらって、「もうしんどい思いをしなくていいからね」との思いを込めて、このような心情・言葉が出ることは、当然のことです。 一方で仏教は、「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」といって、「真実に目覚めること」を目標にする宗教です。 したがって、残された人にとっては「安らかに眠れ」ですが、先立って行った人にとっては「いよいよ真実に目覚め、そのあかつきには、未だに目覚めぬあなたを護り導いていこう」ということです。 目覚めるだけならまだしも、なぜ、目覚めていない人を護り導く活動をされるのか。それは、目覚めの内容に深く関わっていきます。 目覚めの内容とは「わたしとあなたは、ひとつである(=ふたつに分けることが出来ない関係)」という「無分別の見方」であります。 私たちは、「好き、嫌い」「価値がある、無い」「正しい、間違い」「この世、あの世」という具合に、物事を分けて考える「分別」の世界を生きています。同様の論理で、「わたし、あなた」と分別している。そして、そのような認識の源には「煩悩(自己中心の世界観)」があるのです。 命が尽きるというのは、この煩悩の火が消える(これを「涅槃寂静=ニルヴァーナ」という)ことを意味するので、亡くなった人は、無分別の世界に生きる、すなわち、 「あなたがうれしい時はわたしもうれしい」 「あなたが泣けば、私も泣く」 という具合に、無分別の世界から働きかけてくれるのです。 私たちは「目を開けて眠っている」。これが仏教の見方なのです。
「いただきもの。」の画像
いただきもの。
2022年07月09日 04時35分
この言葉を著された大峯(おおみね)顕(あきら)先生は、続けてこうおっしゃっています。 「この命は私の中で動いているけれども、私の所有物ではないんです。たまわった命です。誰のものでもないというのは、如来のものということです。ただの物質という意味ではなくて、人間の力ではない不思議なものからいただいた不思議な力です。(如来というのは、天地創造の絶対者という意味ではなく、私を生かす「働き」全般を指します。)   私は今、3人の子ども達の純粋な姿に心を打たれています。寝顔はもちろん、遊ぶ姿、怒り、泣き、日々の3人の姿を見ていると、幼い頃、私自身が受けた母の愛情、周囲の皆んなの愛情と重なるのです。しかし当時は応えるどころか、反発ばかりしていたため、そんな風に思い返すと涙が出ます。 この世で生きていくということは、「権利」「義務」「責任」と無関係ではいられません。だけど、「そもそも、生かされている私」を「とっても不可思議なことだ」として、今一度向き合ってみることは、生きることの根本的な意味において必要なことではないかと思うのです。  
「足を思う。」の画像
足を思う。
2022年07月08日 05時14分
ほとんど毎朝、親鸞聖人のお花を綺麗に入れてくださる方が声を掛けてくださいました。 とはいっても、この暑さも相まって、ご自身のお身体のこともあって、最近久しぶりに再会したところです。 「今の掲示板の言葉は、どこかの歌ですか?」 「いえ、どこかの法話で聞いたことがあって、耳の底にあったので書いてみました」 「なるほど、と思いました。私今まで、病気だなんだでこんなに足が動かなくなって、自分の足に嘆いたり愚痴ばっかりだったんですけど、ああそうか、こんな私の足も大地と合掌してたのかと思うと、なんだか気分が軽くなります」 私としては「なんかキザな言葉だな」と思って、もうそろそろ別の言葉に変えようと思っていたところだったので、もう少し置くことにしました。 ここでの「大地」は「無条件で私を受け入れてくれる世界」です。また「足の裏」は「私が普段『当たり前』と思って感謝することもない姿」です。 「合掌」は、・・・なんですかね。どう表現したらいいでしょう。教えてください。