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先の日曜朝、娘も久しぶりに皆さまと朝のお勤めをしました。
読経後、大の字になって寝ころんでいる姿を、ご門徒さんが
「いいなぁ」
と喜んでくれました。
私も「すみません、行儀が悪くて」というのも、なんかなぁ、という思いがして、ふと考えたのが「本堂」という空間についてです。
仏さまのことを古来「おやさま」とお呼びすることがあります。自分の親といえば、通常肉親を指しますが、「この私のいのちの帰る場所」としての仏さまという意味では「いのちの親」と言えるからです。
親の前だからこそ「本来の私」になれる、ということから、大の字をゆるしてもらえるのだ、という考えです。そしてまた、「助かるあての無いこの私を、この仏さまだけは見捨てなかった」という有難さから、「かしこまる私」もいるのです。
子どものころから寺に親しんでおく方がよいという考えは、これが理由です。法事や葬儀の時にしか、この空間に入る縁のない人は、ずっとかしこまっています。
「どんなにええかっこしても着飾っても、あんたの本性は全部見抜いとる」です。
どうぞ皆さん、
普段着で、手ぶらで、いつでも遊びに来てください。
最近は美味しいコーヒー、支度しています。
大の字になれたら合格です。