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伝統を考える(中編)

2021年12月21日 04時21分 仏教 日誌

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「父は新しいことばかりやっているイメージが強いかと思いますが、実は無類の古典好きです」
そうおっしゃったのは、歌舞伎役者の故・十八代目中村勘三郎氏のご子息である六代目勘九郎氏と七之助氏です。テレビでは、若い頃の勘三郎氏が父親に基礎を徹底的に仕込まれている様子が映されていました。

「世界の、どこで何をやっても歌舞伎役者がすれば歌舞伎になる」そう言った勘三郎氏ですが、歌舞伎を髄まで楽しみ、「伝統」の本質を知った一言だと思います。

そう評しながら、私自身は「伝統」についてまだ自分の言葉を持っていません。そうしたところ、山口の「光浦醸造さん(クリック)」のホームページで腑に落ちる文章に出あいました。
転載のお許しをいただきましたので、ご覧ください。

 

『伝統』とは、「終わったもの」

私はいわゆる伝統食品産業である仕事の後継ぎとして15年間、結構真剣に取り組んできました。この仕事をしているうえでよく付きまとってくる言葉のひとつに『伝統』という言葉があります。私は昔から「伝統」とは、守り伝えていく「伝承」と新しいことにチャレンジする「革新」との連続、つまり今までのものを守りつつ大きなイノベーションを起こしていくことが必要だと考えていましたが、数年前から少しその考え方が変わってきました。
それは、伝統と呼ばれているものには実はもう革新の必要がないのではないか?というもの。

端的に言うと『伝統』とは、「終わったもの」なんだと思います。

もちろんネガティブな意味ではなくて、先人たちに敬意を表しての「終わったもの」という意味で、つまり「ゴールしたもの」だと思うのです。
味噌や醤油に真剣に向き合えば向き合うほど伝統と呼ばれるものには革新の余地がなく、無理に革新を起こそうとすると、逆に伝統に傷をつけかねないなと感じます。

 

精度を求められるフェーズ(段階)

『伝統』は技術的にも科学的にも99.9%くらいゴールに到達していてイノベーションの起こしようがありません。残りの0.01%を追及し、伝統をより良く伝承していくためにやらないといけないことは、革新ではなく「精度を高める」ということに尽きます。
そしてその精度を高める方法も伝統調味料の場合、実はかなり確立されていて、それは無機質な言い方ですが単純に良い設備と環境を整えることであり、その設備の使いかたを細部までマスターすること。
日本酒業界がまさにそうで、日本を代表する地元山口県の素晴らしい酒蔵、東洋美人や獺祭といった工場を見せていただくと、そこは「手づくり・職人」という言葉とは少し違う、全てが計算しつくされた衛生的な最新の設備と環境で作られています。
そこにはパッと何か革新を起こそうというよりは地道に精度を100%まで高めようという気概しか感じられませんでした。そしてその気概はとても有機的で本当に人の心を打つレベルなのです。

 

伝統に革新が起こるとどうなるか?

もし伝統に革新を起こすとそれはもう違うものになってしまうのではないかなと思います。
例えばテレビ。もうこれ以上薄くなる必要がないほど薄くなったし、色調の表現も全く問題ありません。そういう意味においてはもうテレビは伝統工業品と呼んでも良い(99.9%ゴールに近づいている状態)のではないでしょうか?これから解像度が4Kから8Kになったところで白黒からカラーに、ブラウン管から液晶になったような革新ではないですし、例えばもし本格的な3D、4Dの立体映像機器が出てきたりしたらそれはもはやテレビではなく、何か他の呼ばれ方になるのだと思います。レコードがCDに、ウォークマンがiPodに変わったように。
当然ながら、4Kを8Kにしていく過程で得られる技術力は無駄ではなく、次の新しい伝統工業品となりうる何かを作り出す財産になるのは確かですし、その研鑽を怠ってはいけないと思います。

 

環境に順応できる柔軟性も必要

あともうひとつ大切だと思うのは趣向や環境、時代に対する「順応力」。
歌舞伎で例えるとアニメをモチーフとしたスーパー歌舞伎や海外公演の口上を英語やフランス語で行ったりすること。
賛否両論あるかもしれないけれども、伝統を廃れないものにするため、伝統を発見・再発見してもらうため、時代や環境に合わせていく順応力と挑戦も大切ですし、そこからやはり他の新しい伝統となる何かが生まれるかもしれません。

「伝統とは伝承と革新の連続だ」という以前の自分の考えは間違いではないんだけど、もうちょっと踏み込んで言うと、「伝統が作られてくるまでには伝承と革新の連続があった。」ということであり、「これから伝統を守るためには革新の必要はなく、より良く伝承していくためには精度を高める真摯な努力と、環境に順応していく柔軟性が必要だ。」ということなのかなと思います。

もちろん、この今の私の考えを大きく覆す『革新』が存在するのかもしれないし、伝統とは言っても業界によってはこの考えが当てはまらないかもしれません。ただ、面倒くさいけど、自分の仕事上大切なキーワードについて一度自分なりに定義してみるというのは長い目で見てみてやはり必要な作業で、数年前からこの考えのもと仕事に向き合っているところなのです。(下線・太字・赤字は住職)

感動的な文章です。
また、私自身の立場からも同じことが言えるような気がしました。
光浦醸造さんにとっての味噌が、私にとっての「仏教」です。仏教は教えとしてすでに完成(100%)していますので、あとはそれをどう味わうかという時に、山門、境内、鐘楼、本堂などを余すことなく生かす。そして、場合によっては寺から出て、法衣を脱いで、いつでもどこでも教えに出あうことを可能にする。そもそも「教え」は、考え方というよりも生き方に直結するものですので、いつでもどこでも味わうことが可能です。しかし、方法を誤ると教えが教えでなくなることもある。

そして、私の場合難しいのは、取り組んでいるものが「目に見えない事柄」であることと、相手によってその事柄の受け取り方が異なるという点です。薬が毒になったりするのです。

次回は、「私にとっての仏教の伝統とは何か」について書こうと思います。