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他力本願について

2022年09月27日 07時35分 仏教 日誌 読む

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今年のプロ野球セ・リーグは広島、巨人、阪神が、自力でクライマックスシリーズに進めなくなったことをうけて、「他力本願シリーズ」という言葉が飛び交っているようです。

他力本願は浄土真宗の大切な言葉。
「他力本願シリーズ」もちろん誤用なのですが、こんな形でも使ってもらえることで話題提供になるので、ま、いっか、と思ってしまいます。

さて、自力と他力は、仏教でも中心話題の一つですが、以下のように整理を試みて、皆さまのご理解を得られたらと思います。

自力(自分の努力が必要なもの):家の掃除。趣味や研究。健康維持。

自他力(自分の努力以外に多要素が含まれるもの):親族や友人、地域の付き合いなど人付き合い。交通事故。会社。天災。病気。

他力(自分の努力ではどうにもならないこと):生まれてきたこと。老いること。死ぬということ(健康維持の努力によって長生きする人も、死を先延ばしできているに過ぎないという見方)。

「努力」というよりも、「コントロール」と言った方がよいでしょうか。上記の分類は全くの試験的私見(ダジャレ)なので、人によって分け方は違いましょう。皆さんの意見も聞かせてください。

この試みで分かったことは、
「100%の自力ということは、ないのではないか」
ということです。

例えば、ダイエット用のお茶を飲むとします。
「これは私が働いたお金で買ったお茶だ。結構高かった」という価値観の人、「茶葉を育て、加工し、運搬され、あらゆる人の行為の上にあるお茶だ」という価値観の人、様々です。

社会(この世)にいるということは、他者と何らかのかかわりをもって生きている、ということです。互いに作用しながら存在している。

浄土真宗は、このような「〇割自力、△割他力」と理解されるような世の中にあって、「100%他力」を説くとんでもない宗教であります。

ちなみに「他力」とは阿弥陀如来のはたらき、「本願」は阿弥陀如来が阿弥陀如来であるために設定した48の項目の「18番目」、という意味です。